人が、人のみが歩きやすいために舗装されたアスファルトは、ひび割れて哭く。
庭の景観のためだけに、日陰に埋もれた草花は、剪定されることを知りながらも、枝葉を伸ばさずにはいられない。
結果としての美しさを、目的としての美しさとして模倣する、その悲しみがある。
盆栽の屈曲を喜ぶその同じ顔で、息子の曲がった背中を正す父親。
愛とは、与えるというよりも、受け入れることだと気がつくまでに、もしかすると時間を必要とすることもあろう。
過ちを繰り返すことも、赤子が立ち上がるまでのその様をみれば、どうして愛しめないか、自らに問うことができる。
神が意識だとして、DNAは技術。生殖には愛がある。その結果は炉端に転がる石とも言えるし、それを拾い上げて大事にすることもできる。
しかし、我々、万物は、石を拾うために、存在しているわけではないのだ。