海揺録

自律とか、自由とかが、たぶんテーマです。以前は、精節録というブログ名でした。

「虚無に進む国」

昔、ある国があり、そこは教育熱心ということで有名でした。

 

とある旅人はその噂を聞いて、その国を訪れてみました。

 

そして、旅人が見た光景は次のようなものでした。

 

 

子供が「あれをやりたい」と言えば、

大人は「それはだめです」と返し、

 

子供が「これをやりたくない」と言えば、

大人は「これをやりなさい」と命じていました。

 

そして、大人たちは口癖のように

「やりたいことがわからない」とぼやいています。

 

彼らは、

やりたいことをやっているときには罪悪感にさいなまれ、

やりたいことをやっている人をみると無性に腹を立てています。

 

その罪悪感と苛立ちは、

子供達のためという大義名分のもとに、

子供達の教育に向けられています。

 

また、自分たちこそは教育熱心なのだと信じています。

 

さらに、

抜け殻の人格は、

役割を与えられなければ、絶望し、

役割を与えられることで、絶望を回避します。

 

おそらくそういう背景で、

この国には、役職が山のようにあり、

大人たちは自分のことを話す一番最初に、

自分が何の役職であるかを語るのです。

 

さて、旅人は、

このような仕組みが、いつ始まったのか気になりました。

 

歴史を辿るうちに、ある声が聞こえてきます。

 

人の心の中で、罪や絶望、恥辱、そういった感情を反復しては、

人の行動を制限している声が、確かにあるのです。

 

心は、慎重さをもってその声を聞かなければ、

本人の声なのか、悪魔の声なのか、区別が難しいようです。

 

 

旅人は、国の中心の寺院に立ち寄り、

大きな鐘を鳴らしました。その音が国中に響くように。

その一瞬だけでも、その音が、悪魔の声をかき消すようにと。

 

彼は、祈りと共に、この国を立ち去りました。

 

この日の旅人の日誌には

「自由とは、自分の両耳を自分の両手で塞ぐこと」と書き残されていました。