昔、ある国があり、そこは教育熱心ということで有名でした。
とある旅人はその噂を聞いて、その国を訪れてみました。
そして、旅人が見た光景は次のようなものでした。
子供が「あれをやりたい」と言えば、
大人は「それはだめです」と返し、
子供が「これをやりたくない」と言えば、
大人は「これをやりなさい」と命じていました。
そして、大人たちは口癖のように
「やりたいことがわからない」とぼやいています。
彼らは、
やりたいことをやっているときには罪悪感にさいなまれ、
やりたいことをやっている人をみると無性に腹を立てています。
その罪悪感と苛立ちは、
子供達のためという大義名分のもとに、
子供達の教育に向けられています。
また、自分たちこそは教育熱心なのだと信じています。
さらに、
抜け殻の人格は、
役割を与えられなければ、絶望し、
役割を与えられることで、絶望を回避します。
おそらくそういう背景で、
この国には、役職が山のようにあり、
大人たちは自分のことを話す一番最初に、
自分が何の役職であるかを語るのです。
さて、旅人は、
このような仕組みが、いつ始まったのか気になりました。
歴史を辿るうちに、ある声が聞こえてきます。
人の心の中で、罪や絶望、恥辱、そういった感情を反復しては、
人の行動を制限している声が、確かにあるのです。
心は、慎重さをもってその声を聞かなければ、
本人の声なのか、悪魔の声なのか、区別が難しいようです。
旅人は、国の中心の寺院に立ち寄り、
大きな鐘を鳴らしました。その音が国中に響くように。
その一瞬だけでも、その音が、悪魔の声をかき消すようにと。
彼は、祈りと共に、この国を立ち去りました。
この日の旅人の日誌には
「自由とは、自分の両耳を自分の両手で塞ぐこと」と書き残されていました。