あなたを「不十分」だと思わせてくる人々から、きちんと距離を置くことだ。
ならば、誰かを「不十分」と思っている人々からも、なるべく距離をおいた方がいい。
こうした空気感は、非常に伝染しやすく、それを思う当人も含めて、写鏡のように「不十分」な人々が溢れかえっていく。
「不十分」さが仮面を被るようになると、その内側は蒸れやすく、つまり腐敗しやすくなる。
素顔に自信がなくなれば、虚飾は勢いを増す。実力への絶望は、他者の足を引っ張るための重たい縄を紡いでいく。
社会を覆う重苦しい空気があるとき、人々はお互いの足首に、枷と重りを括り合っている。
この景色を見て、こんな人々は馬鹿だと罵るその声も、また参加者にすぎないのかもしれない。
さて、自由を基盤として自分の足で立つならば、世界は変わりはじめる。
ルールや制限は、あるひとつのゲームの中の話に過ぎず、そのゲームに参加するかどうかは、常に君が決めて良いのだ。
だいたい、ゲームは楽しむためにあり、いかに楽しむかは、いつも君の知恵がその行方を決めている。
みんながハードモードで、鬼の形相をして鎬を削っている横で、君はイージモードでストーリーに楽しみを見出して遊ぶのも素敵なことだろう。
遊び疲れたら、しっかり休憩をとろう。
たとえば、将棋の対局中に、今詰みがあるかどうかを見極めるのは難解なことが多い。確かに複雑な問題かもしれない。しかし、対局中の尿意で、トイレに行くかどうかは、大抵シンプルな話だろう。漏れたら将棋どころではない。
それぞれのゲームはその趣旨に従って、より複雑で多様な楽しみ方ができるように構成されている場合が多いが、君がどのゲームをやるのかや、今は休憩するのかどうかは、全て君の手の中にあるシンプルな「選択の問題」に過ぎない。
枝葉を追っていると、終わりのない問いに迷い込みやすいが、全体を俯瞰するなら、それは単純な一本の木であろう。
なるほど。投了もまた一局。