「こうありたい」という願いは、
「もしこうなら、こうしたい」という前提を伴っている。
なぜなら、前提を伴わない願いであれば、すでにそうなっているからだ。
つまり、無条件的な願いというものは即座に現実化されている。
そして、現実化のプロセスは、
驚くほどシンプルであり、この条件性を考慮していない。
「お腹が空いたら、ご飯を食べよう」という願いは、
「お腹が空くまでは、ご飯を食べない」という現実をつくっている。
願望の抽象化された状態を、波動としてイメージするとき、
無条件的な願いは、連続的に無条件的に連なっており、
前提的な願いは、これもまた連続的に前提的に連なっている。
我々の思い込みや固定観念が、
「これがあれば、こうなるのに」と意識に働きかけると同時に、
「これがないから、こうなっている」という現実を作り続ける。
そして、これは単発的ではなく、連続的なのだ。
極めて稀に、何らかの運が巡ってきて、
「これがある」という状態が、
確率的に一瞬つくられることがあっても、
前提的な慣性が働いていると、
「これがあれば、こうなるのに」という状態に回帰しようとして、
それを失くすような力が、状態に加わっていく。
言い直すと、願望の波動は基本的に、
無条件的か、それとも前提的か、
いずれかの状態で現実化の慣性をつくっている。
前提的な波動の最もありふれた名称は「期待」や「執着」だ。
無条件的な波動には「救い」「感謝」「愛」など、
そういった名称が使われている。
大富豪であっても、前提的な願望で生きているとき、
その人の人生は「期待」や「執着」によって連続的に構築されていく。
大貧民であっても、無条件的な願望で生きているとき、
その人の人生には「感謝」や「愛」が溢れている。
つまり、波動の性質は、
物理世界のあらゆる指標とは無関係に、
我々の人生を構築する。
「すぐさま、そうあれる」願いに従う。
そして「こうあったら、そうあれる」といった願いを手放す。
すると「すぐにそうなる」現実がつくられる。
そして「こうでないから、そうならない」現実はつくられない。
ゆめゆめ慣性を忘れるなかれ。
どうせなら、手放した願いも書き換えて再利用する。
「こうあったら」という部分を、
「きっと、そうあれる」という風に書き換える。
これならば、慣性は無条件的で、願いも維持できる。
無条件的な慣性は「きっと」という部分に根拠をつくり出していく。
次第に「おそらく、こういう理由で、そうあれる」という風に変化する。
そして、願望と現実は一致する。
無条件的な波動は、時間という概念とは無関係に機能している。
もし、時間が関わる願いがあれば、それは前提的な波動だ。
例えば「この時が来たら、あれをする」という思考から、時間を取り除く。
それだけでいいのだ。
このように、概念的な条件を外していけば、
あらゆる思考は、無条件的な性質に近付いていく。
既完全。