何か「行動」を選択したとしよう。
「行動」の結果がランダムである場合、
それが善い方向に進む「行動」であったのか、
悪い方向に進む「行動」であったのかは、
「行動」が終わった後でしか、その判定はできない。
また「行動」の終了をある地点で測定していたとして、
その地点では悪い結果をもたらしたという判定であっても、
もう少し離れた地点から測定した場合に、
善い結果に結びついていたということもよくあるものだ。逆もまた然り。
さらに言えば、
その「行動」を善いものに変えていくことは、
未来の自分の「行動」に託されているといってもいい。
結果の解釈や、学びの活用によってそれは可能になる。
どのような「行動」を選択したにせよ、
それを善かったものとして捉えるのか、
悪かったものとして捉えるのかは、
自らの手の内にあるのかもしれない。
反省は改善の親であるのだから、
悪かったことを愚直に反省できるのであれば、
それは未来への財産に変わるはずだ。
この観点から言えば、反省の多い「行動」ほど価値がある。
とすれば、「行動」の選択において、
それをするのか、しないのか、
悩むことはほとんど無駄なのだろう。
基本的に反倫理的行動であれば、
そもそも悩むことなどなく、行わないことを決定できる。
それが悪い結果をもたらすことは明白だからである。
悩むということは、
その結果が、善い結果をもたらすのか、悪い結果をもたらすのか、
不明瞭であるからという前提があるはずだ。
では、不明瞭な未来について条件分岐的に考えてみればよい。
まず、善い結果がもたらされるのであれば、行わない理由はない。
では、悪い結果がもたらされるのかどうかという点だけが問題になる。
仮に悪い結果がもたらされないとすれば、
善い結果がもたらされる可能性に賭けて「行動」しない理由はない。
では、一番恐れていた悪い結果がもたらされたとしよう。
その時の後悔が深いほどに、
反省を促し、改善によって未来は今よりも善いものとなるだろう。
さて、悪い結果がもたらす影響が甚大な場合はどうだろうか。
未来の改善可能性を信じることができれば、
その甚大さを受けて立つ覚悟があればいいだけであろう。
その他には、命を賭けて挑むという場合はどうだろうか。
失敗に終わった場合、死によって全ては清算される。
悪がマイナスで善がプラスだとすれば、
死は0の状態へと自己の状態を終焉させる。
自己に範囲が限定されるのであれば、どんなに悪い結果も死と共に消える。
自己の善悪は自己の存在を前提としているのだから。
成功した場合、
それがプラスの結果なのであれば、
極論、0になるかプラスになるかということになる。
奇妙な話のようだが、死の恐怖さえ無視できるのであれば、
最も期待値の高いゲームがそこにあるのだろう。
条件分岐的に考察した結果、
いずれの場合にせよ、
最終的に善くなる可能性が存在していることに気が付く。
行動しない理由など論理的に考えれば、何一つ存在しない。
怖気付くとすれば、
自分の中の改善可能性を信じることができない場合に限るだろう。
しかし、行動しないことによる結果など、
現状維持か、衰退が自分に訪れることが大半だ。
つまるところ、
緩やかに衰退する道を選ぶのか、
ケツに火が付く可能性のある状況に身を投じるのか、
そういった選択になるように思う。
仮に自然的に現状が改善されたとして、
自分は何もせずに現状の回復を待っているというのは、
そもそも他力本願的であり、自分の能力などには何も関係していない。
生まれた時から金持ちであった赤ん坊と同じだ。
それは運であり、いつも両義的な現象だ。
したがって、
行動しないということを選択するのであれば、
行動をすることから得られる改善の可能性を上回るだけの何かがなければ、
それは相対的な機会損失と同じであろう。
「行動」が種となり「改善」の花が咲く。
種蒔きを躊躇う必要はどこにもない。
実りの多い人生は、種蒔きから始まる。