未来を思い描くときに、
僕たちは「未だ知らない感情」を勘案することができない。
1つの言葉に、複数の意味があることを知りながら、
まだ体験したことのない未来をもってして、
言葉への「解釈」や「紐付け」を行うことができない。
この不可能が不可知をもたらしているが、それを意識することはままならない。
未来のそのときに、当時不可知であった事実を思い知らされるのだ。
フィクションから得る感情が、
既知の応用を超えることは難しく、リアルが未知を切り開く。
知らない「知識」を埋めていくことは、広義的な無知の克服になりえない。
狙い澄ました登頂は大きな達成感をもたらすかもしれないが、
これはおそらく幅の問題。
さて、麓での団欒が僕たちを癒す。
これは静かに心を見つめるなら、質が異なる体験になる。
無知は、それ自体が克服不可能な性質であるからこそ、意味を持つように思う。
人生の随所に現れる「幸福」の姿が似通っている理由のひとつは、
それが予見して手に入れようとできる類の事象に、
根本的になり得ないからというのがあるのだろう。
そこにあったからといって、気づかなければ余計に虚しい。
ふと過ぎていく風が運ぶ花の匂いに、心が楽しめる余裕を。
僕たちに準備できる未来とは、そういった種類の能動性なのかもしれない。