海揺録

依存や自律というものと向き合う中で考えたことを書いています。もしも、同じようなテーマについて考えている方がいれば、僕もその一人なので、共に考えていけたらとても嬉しいです。精節録というブログ名でした。

感情と予見

未来を思い描くときに、

僕たちは「未だ知らない感情」を勘案することができない。

 

1つの言葉に、複数の意味があることを知りながら、

まだ体験したことのない未来をもってして、

言葉への「解釈」や「紐付け」を行うことができない。

 

この不可能が不可知をもたらしているが、それを意識することはままならない。

未来のそのときに、当時不可知であった事実を思い知らされるのだ。

 

フィクションから得る感情が、

既知の応用を超えることは難しく、リアルが未知を切り開く。

 

知らない「知識」を埋めていくことは、広義的な無知の克服になりえない。

 

狙い澄ました登頂は大きな達成感をもたらすかもしれないが、

これはおそらく幅の問題。

 

さて、麓での団欒が僕たちを癒す。

これは静かに心を見つめるなら、質が異なる体験になる。

 

無知は、それ自体が克服不可能な性質であるからこそ、意味を持つように思う。

 

人生の随所に現れる「幸福」の姿が似通っている理由のひとつは、

それが予見して手に入れようとできる類の事象に、

根本的になり得ないからというのがあるのだろう。

 

そこにあったからといって、気づかなければ余計に虚しい。

 

ふと過ぎていく風が運ぶ花の匂いに、心が楽しめる余裕を。

 

僕たちに準備できる未来とは、そういった種類の能動性なのかもしれない。