海揺録

自律とか、自由とかが、たぶんテーマです。以前は、精節録というブログ名でした。

不足の病。

「足りない」という状況は、

ほとんどの場合、資源的な問題ではない。

これは情緒的な要素が非常に強い。

 

例えば、今日でもう死んでも良いと思っている人が

残りの時間で必要なものを考えれば気がつく。

 

もう夕刻だ。好きなものでも食べて逝こう。

彼が必要とするのは、その夕食だけだ。

 

では、未来への志向が、不足を冗長させるのだろうか。

そうではないだろう。

 

満足している状況でも、十分に未来を思い描くことはできる。

そうした状況では、大抵の場合、自他の境界性が薄れていく。

 

「不足」を嘆く者たちが嘆いているのは、

「不足」そのものではなく。現状への不満足だ。

それは未来への期待であり、その期待は裏切られることを内包的に期待している。

ある意味、地獄への道を自分の再帰的な思考によって設えているのだ。

 

これは物質的な問題ではなく、精神的な問題が重い。

 

飢餓に苦しむ赤子は、自分がなぜ苦しいのか言語的に理解していない。

彼らは「不足」という概念を知らずに泣き喚く。

その感覚は全て今にあって、これは痛覚などの肉体的な問題なのだ。

 

「恐怖」を言語化する場合、それはすでに未来を想定している。

 

自分の好き嫌いや欲しいものが分からないときに、

「何が欲しい?」と聞かれると、人は困惑する。

 

この困惑がトリガーになって、ある種、全てが欲しくなってしまう。

いらないものまでも必要に思えてくるのだ。

 

「今」を生きている子供たちに、

「夢」を問う愚かさに似ている。

 

自己を内省する知能や言語能力がないうちに、

「君のやりたいことはなんだい?」と聞かれても、

これはただ困惑を引き起こすだけなのだ。

 

なんとなくうまくできたことは人に説明できないように、

なんとなく「やってみたいこと」や「なってみたいこと」といったものは、

無理に言語化してはならない「感覚」なのだ。

 

これは、細い細い糸を手繰り寄せるような繊細な作業の繰り返しによって、

おぼろげながら概念的に身体に入ってくるのであって、

無理に言葉にした途端、糸が切れてしまうことは非常に悲しい。

 

「幸福への階段を舗装してあげよう」などという傲慢さは、

全ての「希望」を台無しにする。

 

自らの「水準」の中で、

道をつくり、移動手段を用意することで、

自らの位置や意味を理解していくはずだ。

 

誰かの設えた道を歩むことは、

自らへの理解を破壊する。

その道での一歩は「自信」ではなく、

「依存」と「恐怖」を常に伴うのだ。

 

問うべきは「夢」などではなく、

この一歩が「今、望んでいる一歩」なのかどうかだ。

 

「今、望んでいる現実」がここにあるのであれば、それで満足できる。

 

不足の病の治し方は、

それが絶望をもたらすとしても、

自らの足元を感じることだ。