溢れ出る「気力」は、
あらゆる対象に対して何かを与えんと欲するが、
こと「我田引水」なる小人については、
これを堰き止めておかなければならない。
これは意外と難しいことが多い。
一度引かれた水には、必ずそのための水路ができているからだ。
「流れ」とは循環性をその本質としていて、
一方から注がれるだけの展開は摂理に反している。
他者を慮ることなく溜め込まれた「仮初の富」は、
その内側から腐食していく。
その腐臭に気がつかないほどに、
「感じる力」が不足しているからこそ、
自我のみが肥大していってしまうのだろう。
これは悪循環そのもので、
自我に占領された意識は、不都合な事実から目を覆い、鼻や耳を塞ぐ。
ゴミ屋敷の真ん中で盗んできたダイヤモンドを大事に抱え込む姿が浮かんでくる。
なるほど。
そのダイヤモンドがそんなに大事な理由は、
ダイヤモンドそのものではなく、
その小さな光すらなくなってしまったら、
君の前に残っているのは自らの罪で波打つ腐海だけだからなのか。
その腐海に、いくら綺麗な水を足そうとも、もうどうしようもない。
ならば、我々が彼らに与えられる最上のものはなんだろうか。
渾々と湧き出る綺麗な水を注ぐことでは決してない。
彼らがその腐海を精算する機会を邪魔しないためにも、
「ごまかし」となりうる一切を与えないことが、それにあたるだろう。
与えることも慈悲であろうが、
求められても与えないこともまた慈悲となりうる。
駄々をこねる子供に「自律」してもらうには、
それだけでは「相手にしてもらえない」という認識を植え付けることだ。