海揺録

自律とか、自由とかが、たぶんテーマです。以前は、精節録というブログ名でした。

因果論・妄想

万象が連鎖している以上、あらゆる現象に因果がある。

 

しかし、心象は気まぐれな以上、

「欲する因果」は、現象的な因果と一致するとは限らない。

 

人を苦しめた者について、

同じようにその者がいつか苦しむ夢を見るのが、

人の性のひとつなのかもしれないが、

その者はその夢が果たされるに関わらず、いつか死ぬのだ。

 

野生であれば、牙を向けばいいが、

社会であれば、剥き出しの牙は牢屋に繋がれる。

 

狡猾な応酬は心身を疲弊させる。

あえてそれを楽しむ者を「異常者」と定めたところで、

それらの人々は、そのラベリングを気にとめなどしない。

 

知性の揮発は、その方針次第で、

遺伝子の解析、量子計算、AIによる銃撃など。

 

知能と倫理観の相関があると仮定したとしても、

「倫理観」という関数の変数に少なくとも「時代」が入力される以上、

「正義は勝つ」という文言の全ては定義を失っていることに近い状態なのだろう。

 

内省を欠いた「自我」が入力された「正義」は、

自らの思い通りにならない全てに怒り出す。

 

赤ん坊のある種の暴力は、純粋な「わがまま」違いないが、

暴君のそれは、大半が自己への狂信と盲目なのだ。

彼らのそれらは、彼らにとって「正しい行い」そのものだ。

「正しい行い」を強烈に宣言できるその思想自体に誤謬がある。

 

暴君の凋落を願う民衆。そこに因果論信仰がある。

 

望ましい未来を願うならば、

自らが礎となることでしか、それは果たされないのだろう。

 

自分にとっての「狂人」は誰かにとっては「聖人」かもしれないし、

自分にとっての「偉人」は誰かにとっては「悪人」かもしれない。

 

論を戦わせるのは自由。

思考を調整するのも適宜。

 

 

無駄な戦いは避ける。

 

だから、無駄な妄想を避ける。脚下照顧。