万象が連鎖している以上、あらゆる現象に因果がある。
しかし、心象は気まぐれな以上、
「欲する因果」は、現象的な因果と一致するとは限らない。
人を苦しめた者について、
同じようにその者がいつか苦しむ夢を見るのが、
人の性のひとつなのかもしれないが、
その者はその夢が果たされるに関わらず、いつか死ぬのだ。
野生であれば、牙を向けばいいが、
社会であれば、剥き出しの牙は牢屋に繋がれる。
狡猾な応酬は心身を疲弊させる。
あえてそれを楽しむ者を「異常者」と定めたところで、
それらの人々は、そのラベリングを気にとめなどしない。
知性の揮発は、その方針次第で、
遺伝子の解析、量子計算、AIによる銃撃など。
知能と倫理観の相関があると仮定したとしても、
「倫理観」という関数の変数に少なくとも「時代」が入力される以上、
「正義は勝つ」という文言の全ては定義を失っていることに近い状態なのだろう。
内省を欠いた「自我」が入力された「正義」は、
自らの思い通りにならない全てに怒り出す。
赤ん坊のある種の暴力は、純粋な「わがまま」違いないが、
暴君のそれは、大半が自己への狂信と盲目なのだ。
彼らのそれらは、彼らにとって「正しい行い」そのものだ。
「正しい行い」を強烈に宣言できるその思想自体に誤謬がある。
暴君の凋落を願う民衆。そこに因果論信仰がある。
望ましい未来を願うならば、
自らが礎となることでしか、それは果たされないのだろう。
自分にとっての「狂人」は誰かにとっては「聖人」かもしれないし、
自分にとっての「偉人」は誰かにとっては「悪人」かもしれない。
論を戦わせるのは自由。
思考を調整するのも適宜。
無駄な戦いは避ける。
だから、無駄な妄想を避ける。脚下照顧。