何かを見つめるとき、
頭の中の妄想が視界に「解釈」を与えることがある。
意味のわからない景色ほど、
僕らはそれに意味を見出すのかもしれない。
水晶の占い。
相場の行き先。
陰謀論の悪役。
混乱らしきものに、
秩序性がみいだせることもある。核分裂。
秩序の直観。素数列。
神の啓示。ラマヌジャン。
確率的な記述は、
混乱の解釈として有用に違いない。
一見、正規的ではないデータですら、
中心極限定理では正規的に解釈できることがある。
しかし、
靄にうつるそれは、妄想であり、
その視界には、
靄以外ないのだということを理解してはじめて、
靄の解析に移ることができる。
妄想的解釈の根本には怠惰と傲慢がある。
その危険は、射幸心によって肥大し、
誤った解釈がもたらす結果は、
多くの場合、悲惨なのだ。
眼前に何もうつらない時もある。
「何もなかった」という現実を認めることもある。
その証明は、
そうでないときの証明より困難なこともある。
だからこそ、その過程の中に、
幾多の技術や技法、発見や発明があった。
意外にも、
現在進行的に用いられている結果というものには、
そうした「現実的な道具」が多い気がする。
夢が夢のまま終わったとしても、
手元に残ったそれらは、夢の残骸などではない。
それこそが、まぎれもなく、現実だ。