海揺録

自律とか、自由とかが、たぶんテーマです。以前は、精節録というブログ名でした。

静謐と。

精神が安定してくるに従って、

人との関わり方というのはいたって淡白になっていく一方で、

親密さというものは、自分と相手の精神的な成熟加減に応じて、

深まるところまで深まっていく。

 

現実に生きている人々との間に醸成されていく「信頼」というものが、

そこにもたらしてくる心地よさというものは、

もはや経済的な安定による心地よさというものと

比較するような類の要素ではないようだ。

 

後者が空高く、より高く、そこにある雲の上で過ごすようなものだとすれば、

前者は「地に足のついた」という言葉がとても似合う。

 

効率を求める行為は、ある種、夢想に酷似していて、

想像と計画の段階では、いかにもこれは素晴らしい未来を予期させるようだが、

実際、その収束の先には、大抵空虚さが訪れるのだ。

 

その理由は、そこが「雲の中」だからであって、

心を通わせるという根源的な行為を忘れている場合が多いからだろう。

 

「何かができる」ということと、

「何かをしたい」ということは、必ずしも重ならない。

夢に描く未来が「できる」の帰結なのか「したい」の帰結なのか、

進む前に立ち止まって自分を振り返る必要がある。おそらく。

 

それが重なる部分を探すというのが、

まさに「自分を探す」という行為のような気もしていて、

自分を探すのは「自分の中の『したい』」と

「社会の中の『できる』」の重なりに存していたりいなかったり。

 

ここがうまくハマりさえすれば、

不幸に喘ぐ人生に陥ることは基本的に避けられるのだが、

一体、その人が期待しうる人生の「幸福水準」というものが満たされるかどうかは、

まあほとんど怪しいものだ。

 

期待を捨てるなどと、言葉をはいてみたところで、

それが問題なく上手くいくとすれば、

どうして宗教家に修行の工程があるのだろうとも。

 

欲しいものが全て手に入ったことによって

「幸福の状態」が訪れるわけではないということが明確に体験されていれば、

多くの誘惑は誘惑としての具象化をやめて霧散してく。

 

「成功」という抽象概念に、挑み続けた先にあるのは、

雲の中での生活で、大気圏を抜けても、広大な宇宙が広がっている。

 

なにやら、小さな子供が、目の前の宿題から逃げるように、

窓から夜空の星を眺めている情景が浮かぶ。

 

この場合「問題」は「成功」によって解決されない。

 

もしも、星を両手いっぱいに抱えることができても、

机の上に広がっている算数のドリルは一問たりとも進むことはないのだ。

 

稚心を捨てるとは、

無論、無心にドリルを解くことではないし、

現実逃避の遊びにふけることでもない。

 

自分の心に「今日、きみが食べたいものは?」と問える精神性がそれに近い。

そして素直に、それを作って食べる。

そんな毎日の繰り返しが「自分」なのだと、

それを緩やかに感じる静謐さがあるならば、

あとは自然のままに進む。

 

当初の「自分のため」は、次第に「誰かのため」に拡大していく。

その過程で、より影響的な範囲性が自分に付与されていく。

 

賽をふって出た目が、進む場所なのだ。

自分で賽をふることはできる。

しかし、その結果は、確率的な問題だ。

 

ならば、正しい「期待」であれば、試行回数に従って、そこに収束する。

人生に正しく「期待」できる知性を。

 

満ち足りるとは、

常に「1」の目で満足しようとすることでもなければ、

常に「6」の目を出し続けようと躍起になることでもない。

 

では「3.5」への収束を確かめることなのだろうか?

 

直観的にいずれでもないだろう。

 

牛が多くを食べるのは、牛が欲張りだからではなく、

彼らの体が大きいからにすぎない。

 

小さな子供が、大人の真似をしてスーツを着ようとしても、

彼はそのイメージを現実化することが難しい。

 

「身の丈に合った生活」というものがある。

 

生活など、大別していけば、ある程度で細分化が終わる。

そのそれぞれに、ちょうどよさを。

「したい」と「できる」を一致させる作業を地道に繰り返すだけだ。

 

RPGゲームを思い出す。

レベル上げは地味な作業だけれど、

これをやらんことには次の遊び場を楽しめない。

 

逆に、レベル上げのないRPGなど、ただの紙芝居だろう。

 

いや、レベルをあげればあげるほど、ゲームが楽しくなるわけではないのだ。

これは別に比例していない。

 

僕たちは「楽しみ」を維持しようとして、

目の前の敵と戦い続けているのだ。

 

レベル上げが面倒かい?

ではゲームの電源を抜く?

 

もしかしたら「この先に楽しみが眠っているかもしれない」

 

この「賭けの理論」と人間の合理性が、我々が生きる意味なのだ。

 

ゲームを強制終了すれば「0」で終わるが、

ほんの少しでもそこに喜びを加える可能性にかけて、

我々は今も生きているということを選択している。

 

そりゃあ夢もみるだろう。