その人の偽りの全能感は、
あらゆる人々の協力のもとに成り立った「喜劇」であるのに、
この「興奮」によって視界が自己中心的で盲目になっていくと、
周囲への気遣いや、互恵性を忘れるものだ。
この人は、当然の成り行きとして、
まず、協力を少しずつ失い、
その結果として、凋落がはじまるのである。
自分の欲しいものだけを訴える幼児性は、
社会の中では相手にされないので、
うまくカモフラージュされた憐憫さや、
支配的な怒りの表現、
劇場的な煽動などによってその欲求を満たそうとする。
大きく付いた嘘の代償は、比例して大きく付く。
積み上げられた虚構が高ければ高いほど、
崩れ去るときの絶望は長く、そして痛い。
形をもとめる傾向の強さは、
その人の心にある、動機、
蝋燭に火が灯っていないことを示しているし、
自らを大きく見せようとする虚構性は、
その人の炎が小さく怯えていることを表している。
自らの「欲する何か」は、
自らの感覚でしか分かりようがないのだ。
これを常識的な視座や、
社会的なそれっぽさの中に求めるようとする人間らしい愚行は、
今日自分が食べたいものを、
世界のグルメランキングから探すような行為だろう。
そりゃあ、ランキングの中にあるときはあるのかもしれないが、
そんな探索的な労をせずとも、
自らにきけばいい。それが最も確かな「思い」なのだ。
肥大した歯車の帳尻合わせ。
「順調」だったはずの秒針は少しずつ狂って、不安定な時刻は焦燥を。
一度狂った歯車は、時計を止めて組み直さない限り、もう噛み合うことはない。
このまま地獄に進むのか、足を止めて虚構を精算するのか。
恐怖は「進め」と心を引っ張るが、
真実は特に何もせず「止まれ」と言っている。