「ビリヤード台」
ひと突き。
その瞬間に、すべての玉が綺麗にゴールに入るように決まっていたら、結果は、その通り、台からすべての玉がすっきり消える。
これが「決定論」のイメージ。
世界はここに「再帰関数」を導入している。
つまり、完璧なゴールが演出できないなら、玉の軌道を変える。
それこそさまざまな要因で。
完璧なゴールのために、周りの玉の軌道も変えて、再干渉させ合う。
なぜか。
我々が玉そのものだとして、我々は「止まる」ということができてしまうからだ。
そうすると、最初の完璧なひと突きの起動計算も台無しになる。
我々が「現実を受け入れない」とき、
つまり「現実に対して対抗しようとする」とき、
例の再帰関数は、いよいよ激しさを増していく。
さて、我々が、他の玉との干渉を徹底して避け、
自らの「現実」をそれこそ「解釈」することなく、
老子の言ったように無為自然と過ごすならどうなるだろうか。
そのビリヤード台は、
その時点の再帰関数の計算をそれきりとして、
玉はすべて綺麗に穴に落ちて、ゲームは終わる。
ということに、今日の夢の中で、静かに判然としていた記憶が残っている。
物語という監獄。選択肢としての物語。「自律」の本質。
目標によって、行動は整流化される。
そうして、散逸していたエネルギーが、活力化する。
目標を失った、エネルギーは、単純に霧散する。
霧散化したエネルギー状態が、すなわち無気力やものぐさである。
無気力は退屈の同義であり、退屈が不平不満の源泉となる。
不平不満は、他責思考をつくる。
他責思考が、行動を淀ませ、人を責めた分だけ失敗を恐怖するようになる。
行動の泥濘化が、エネルギーを濁らせる。この状態が、さらに無気力に拍車をかける。
肥大化していく退屈さに比例して、人は不平不満をさらに加速させる。
この地獄を抜けたいと心の底から願うようになるまで。
この苦しみと願いによっても、いずれにせよ、人は目標を取り戻す。
目標も、因果も、幻想や創作物に過ぎないが、
それなくして、エネルギーを整流できる人間は少ない。
さらには、その幻想性を看破してなおも、掲げておいて損はなく、
本質が幻想ゆえに、理論的には無限に供給可能な整流化装置として、
より形式的な意義を持つようになる。
そして、生命とはエネルギーそのものであり、
その方向性を決定づける「力」が我々には与えられているのだという「自由」に気がつくのである。
こうして、現実の本質である「カオス」が、自由の別名であることを理解できる。
カオスとは、そのイメージに反して、単に真っ白なキャンバスのことであり、
目標とは、描きたい絵であり、選択とは、筆の先を今どこに置くかということに重なる。
我々は「物語による洗脳や支配」を克己して、
「物語の道具化」に進むことができる。
我々は「物語を選択する力」を与えられている。
それを意思によって選択する、
ということが「自律」の本質である。
夢をみて、目標的行動の中で、
失敗をすることによって、カオスは経験化される。
この経験の蓄積の総体が、その人物の「生きた意味」を物語る。
「生きる意味」というのは「ある」のではなく、
整流化されたエネルギーとカオスとの摩擦によって生じる「火傷の痕跡」を、
何らかの絵として解釈するときに「生じる」のである。
そして、その絵を丸ごと愛して、
安らぐ心を「救い」と呼ぶこともできる。
ゆえに「生きる意味」とは、探しても見つからないのが道理。
失敗という筆で、描かれた結果として、
立ち顕れる「自分の分身」のことだからである。
水脈と雨。
広い大地に、人々がいた。
彼らはみな、スコップを手に、自分の足元を掘っていた。
水を求めて、必死に、黙々と、穴を掘り続けていた。
近くでは、早くに水脈を掘り当てた人がいて、
人々から「神童」と呼ばれ、賞賛されていた。
遠くでは、昼夜を問わず掘り続けた人が、ついに水を見つけた。
その周囲では、この努力が感動を呼び、拍手が起こっていた。
またある場所では、
みんなが「隣よりも深く掘ろう」と、
首を左右にソワソワと動かしながら、
疲れ果てていた。
たまたま足元に水脈があった人は、すぐに水を飲めた。
何度も足場を変えて、ようやく掘り当てた人もいた。
けれど、どれだけ足場を変えても、
どれだけ深く掘っても、水が出ない人たちもいた。
彼らは、いつしか社会の中で「いないもの」のように扱われていった。
そして、3日後に、雨が降った。
そのとき、スコップも持たずに、
ただ寝そべって空を見上げていた子供は、
口を開けて、その雨水を飲んだ。
一方、掘ることに懸命になっていた大人たちは、
空から降る雨水に気が付くことなく、
今日も喉が渇いたままに、穴を掘り続けていた。

千秋楽
ビデオの逆再生が可能なように、
時系列もまた、逆再生が可能である。
意識が時系列を遡ることを、我々は「思い出す」と言っている。
記憶としてラベリングしている。
一般的な時系列に沿って、何か大きなことを成そうとする時、物理現実のエントロピーが、まるで障壁かのように緩やかに動く。しかし動くのは動くので、ことが成ることもある。
エゴは、この「ことの大きさ」という点で、希少性を希求して、尽きることのない不足を餌に、前進を繰り返す。最初は、家の外に出て少し散歩をするつもりが、いつの間にか、酸素のない宇宙空間で窒息寸前に足掻くような状況を作り出していく。いい具合のところで呼吸を取り戻す人もいるので、エゴの旅は必ずしもバットエンドとも言えないのが味噌らしい。
しかし、おそよ希少性がテーマである以上、多くの旅はバットエンドに向かってしまいがち。ハッピーエンドの希少種は、それらしいことを語って、また新たな若い芽をこの旅に駆り立てる。希少性のピラミッドは、まさにエゴの砂状の楼閣。大きくなればなるほどに、自らの矛盾を雄弁に語ってくれる。いくら成功者が増えようとも、その再現性は比例しない。科学的にはおかしな話。データが溜まっても、解が煮詰まることはない。どれだけヒーローたちが饒舌に語り尽くしても、救われる人よりも救われない人の数が増えていく。ちょっと深刻に語り過ぎたかも。楽観的な見方も当然あって、それでもいいと思う。
閑話休題。
ストーリーという起承転結の並び順に慣れ過ぎたことで、コマを入れ替えて解釈できることを忘れていた気がする。別に、ゴールから始まる物語があったって面白い。技術的にはどんな読み方だってできる。台本があるとして、最終章から第一章に遡って読んでも面白かったりする。
少しトリッキーなのは、エントロピーの話。
一般的な物理現象では、これが障壁化して、物事の進捗が左右される。つまり、夢が叶ったり叶わなかったり、そんな話の背後には、これがあるといってよさそう。財布の中に1円しかないところから、朝起きると、100億円が財布から溢れ出てくるシーンをほとんどの人は想像し難い。それゆえにそんなことは起きないらしい。
じゃあ、逆用してしまえばいい。
今に最大の充足を感じているところから、明日、急激に絶望に陥るなんてこともほとんどの場合で信じ難い。だから、そんなことは起こり得なくなると言えるらしい。
今を、ハッピーエンドとして、未来を逆再生してあげれば、我々の人生は、すべからくハッピーエンド以外にはなり得ない。こうなればエゴの出る幕は無くなったに等しい。そういう意味で、この話が伝わった方には、今日がエゴの千秋楽。
最高の今日の充足に続く、まだ見ぬ未来に乾杯。
無上
身体を俯瞰するように、ひとつ上に意識の姿がある。
それとひとつになるような、もうひとまわり大きな空間がある。
その空間では、望みを示すなら、導く船がみえる。
望みの煩悩が潰えているならば、そうして入れる果樹園がある。望めば、その実は下に落ちる。
何も取るものがないとき、険峻で荘厳な雪山に至る。
そこに座り続けていると、雲を抜け空から全てをみることになる。
空も消え、無の中に光がある。
「わたしたち」によって、これを生きることが始まる。
自由と見識
むかしむかし、とある国に、一匹の賢い狼と若き旅人が住んでいた。
この狼は長い年月を生き、広大な森と険しい山々を駆け巡り、その知恵を磨いてきた。一方、旅人は、未知の世界を探し求める心を持ちながらも、まだ自分が何を求めているのかを知らぬ若者だった。
ある日、旅人は深い森の中で迷い、飢えと疲れに倒れそうになった。そのとき、賢狼が現れた。「ぬし、どうやら自分の行くべき道を見失ったようじゃのう」と狼は笑みを浮かべて語りかけた。
「助けてくれるのか?」と旅人は狼に尋ねた。「もちろんじゃ。しかし、わっちがただ道を教えるだけでは、ぬしは再び迷うことになろう。まずは、何ゆえにこの森に入ったのかを教えてくれんか?」
旅人は首をかしげた。「それが分からないから困っているんだ。自由を求めて旅に出たが、どこへ行くべきか分からなくなってしまった。」
「ふむ、自由を求めるとな。だが、自由とは単に足を動かすことではない。自由とは選択肢を持つことであり、その選択を正しく行える見識が必要なのじゃ。」狼はそう言うと、旅人を立ち上がらせ、近くの小高い丘へと導いた。
丘の頂上に立った二人は、広大な森とその先に広がる大地を眺めた。狼は優しく語り始めた。「見てみよ、この広がりを。どの道を行くもぬしの自由じゃ。じゃが、どの道がぬしを幸せに導くかは、ぬし自身の見識にかかっておる。」
「見識ってなんだ?どうやったらそれを得られる?」と旅人は尋ねた。
「見識とは、学びと経験、そして深く考えることの積み重ねじゃ。学びがなければ道の選択肢は見えず、考えがなければ学びは無意味に終わる。そして、選択肢が見えたときに、最も価値のあるものを選ぶ力、それが見識じゃ。」
旅人は少し混乱した様子で考え込んだ。「でも、自由にはリスクがあるだろう?間違った道を選んでしまうかもしれない。」
「その通りじゃ。」狼はうなずいた。「自由にはリスクが伴う。だが、リスクを恐れすぎて挑戦しなければ、選択肢は減り続け、最後には搾取の罠に陥ることになる。重要なのは、リスクを管理しつつ、可能性を広げる行動を選ぶことじゃ。」
その夜、狼は旅人に森の中で過ごす方法を教えた。「食べ物を見つける術、危険を避ける知恵、そして星空を見上げて自分の位置を知る方法。これらはすべて、ぬしが自らの見識を磨き、自由を生きるための力となるじゃろう。」
数日後、旅人は再び旅を続ける準備が整った。別れ際、狼はこう言った。「最後に一つだけ教えておこう。自由と見識は車の両輪のようなものじゃ。一方だけが強くても、ぬしは前へ進むことはできぬ。学び、考え、そして行動するのじゃ。そうすれば、ぬしはどんな道も切り拓いていける。」
旅人は深くうなずき、賢狼に感謝を述べた。「ありがとう、賢い狼よ。君の言葉を胸に刻み、自分の自由を生きることにする。」
こうして旅人は新たな決意を胸に森を抜け、広がる大地へと歩み出した。

