信号の色だけをみて、横断歩道を渡っていれば、信号を無視して突っ込んでくる車があったとき、轢かれてしまう。
「私は信号を守ったのに」と嘆いても、命を落としてしまっては仕方がない。
もし、轢かれそうになっている子供がいれば、彼を救うために歩道に駆け出す誰かを、赤信号だからといって責める者はいない。
しかし、こうした概念による拘束と、現実の問題との齟齬は、時として、我々の判断を誤らせることがある。
「上の命令に従っただけ」という理由で、数多の人々が殺し合いを行なってきた歴史が、それを教えてくれる。
神妙な縁起が織りなす何か、別の言葉では、タイミングとシンクロニシティがもたらす何か、というものと、我々の社会に広く浸透した時間の表示、というものは「実際」が「概念」によって見過ごされがちなひとつと言っていいのではと、最近感じる。
たまたました寝坊が、運命の出会いをもたらすこともあるだろうが、寝坊を強く罰する社会観念の中にいると、どうしてもこうした出会いは起こりにくくなる。
時刻とは、交通事故を避ける信号のように、他者とのタイミングを合わせやすくするための道具であり、おそらく、そうした道具でしかなく、もし、それ以上の意味をもたせてしまえば、冒頭の例に挙げた信号と事故の関係において、信号を守ることを優先して、命を落とすような、臨機応変さを失った結果をもたらす。
こう考えていけば、本来は道具的な意味合いしか持たなかったはずの概念に、過剰な意味と拘束が付与されている例は、それなりに見つかる。
「時間」と「お金」は、おそらくその最たるものに思える。