読書は、自らが現時点で実感している真理感の枠組みのその先の可能性を、常に提示してくれる。つまり、ある概念による自らの緊縛化を避けることにつながる。
局所最適に留まり続けるような思考停止から、大域解へ旅立つための追い風になってくれる。
「これってこういうことでしょ?」という真理感に対して、「別の視点では、こういうこともあって、そして、、、」というように、思考の泥濘や腐敗に陥ることを避けてくれるのが、本の役割といっていい。
ソクラテスなら、無知の知が、目に見える形で置かれたものとでも考えるかもしれない。
こう考えると、積読というのは、その最たる姿な気がして、少し面白い。
ショーペンハウアーは、読書と、自分の頭で考えることについて、その鮮度の差から、読書から自立した思考に重きを置いていた。
一方、孔子は「学びて思わざれば、すなわちくらし。思いて学ばざれば、すなわちあやうし。」とそのバランスについての言葉を残している。
一見、異なる主張なので、多少、解釈がコンフリクトするかのように思えるが、視点を上げて、抽象的にとらえていくと、これは統合できる。Aufhebenとはこういうことかもという例にもなって、小気味もよい。
つまり先の訓示の「あやうし」ということは、一度思い込みを強めた人間が、それ以外の可能性について、思い至らなくなりやすいという、ありふれた人間の知性が備えた愚かさを警告しているのだろうと解釈すれば、鮮度の差の話と矛盾することはない。
当然と言えば当然で、ある概念に対する最終的な解釈や実感は当人に委ねられており、その意味で、傍観よりも実践、読書よりも思考は、常に優先的な構造を有している。
鮮度のない真理を、化石的だと表現されていたのを思い出すが、これは、考古学が我々の歴史観や未来展望にヒントを与える役割を担っていることを考えると、なるほど、二重の意味を感じて楽しめる。