海揺録

自律とか、自由とかが、たぶんテーマです。以前は、精節録というブログ名でした。

愛と存在の完全性

愛する自らの赤子に向かって、
例えば「早く走ってくれ」と苛立つ親がこの世のどこにいるだろうか。

 

大人と比較して、あらゆる能力が未熟な状態にある赤子だが、
ほとんどのケースで完全に愛されている。

 

つまり、何の条件もなく、

無条件の愛というのは普通にありうる。

 

と考えていくと、

愛がもたらす思いはアンビバレントな側面もあるはずだ。

 

赤子の成長を純粋に喜ぶと同時に、
今まで愛していた状態との別れも常にありうる。

 

二足歩行に移行してしまえば、
四足歩行の愛おしさは、もうやってこない。

 

より抽象化してみると、こういうことだろう。

 

1, 変化を素直に喜ぶことができる。
2, 変化前の状態に哀愁を感じる。
3, 変化自体への期待は存在しない。

 

これが、無条件の愛の継続的な姿だろう。

 

赤子は何度でもこけるが、
それを批判したりする無意味さは誰しも理解できる。
仮に批判したとして、彼らにはまだ言葉なんて理解できない。

 

批判的な言動は、全て自分の調子を落とすだけで、
むしろ、赤子の足を引っ張ることはあっても、
誰にとっても何一つ益は無い。

 

つまり、対象へ無条件の愛が注がれる時、
その対象は、その状態で完全なものになる。

 

今が永遠に続けばいいのにという感覚と、
対象の変化を純粋に喜べる感覚の両輪が、
愛という馬車の車輪であり、
これはどんな道のりであっても最高の旅をもたらす。


馬は欲望で、御者は理性だ。
この旅は、基本的に馬の頭の方向に進むが、
時折、大きな崖や盗賊の群れなどがいれば、御者がそれを避ける。

 

だから、全ての要素が必要で、それで完全なのだ。

 

そして、重要なこととして、

いかなる道のりであろうが、

「愛の状態」と「道のりの状態」の関係は、

分離して解釈することが可能である

というのは面白い部分だろう。

 

 

「ああ、本当にそっちに行っていいのだろうか、、、」

と御者が思い悩む必要など一切ない。

 

御者の役割は、欲望の選択ではない。危険の回避だ。

 

馬はこういうだろう。

「それを決めるのは君ではないよ。僕の役割を奪わないでくれ。」

 

御者の緊張は、躊躇いとなり、

躊躇いは、その願いの通りに危険を顕現することになるだろう。

 

ならば、危険がなければ、手綱は緩めておこう。

 

大切なことはリラックスだ。

そうすればいい旅になる。

 

自らの幸せを躊躇う必要など、どこにもない。