愛する自らの赤子に向かって、
例えば「早く走ってくれ」と苛立つ親がこの世のどこにいるだろうか。
大人と比較して、あらゆる能力が未熟な状態にある赤子だが、
ほとんどのケースで完全に愛されている。
つまり、何の条件もなく、
無条件の愛というのは普通にありうる。
と考えていくと、
愛がもたらす思いはアンビバレントな側面もあるはずだ。
赤子の成長を純粋に喜ぶと同時に、
今まで愛していた状態との別れも常にありうる。
二足歩行に移行してしまえば、
四足歩行の愛おしさは、もうやってこない。
より抽象化してみると、こういうことだろう。
1, 変化を素直に喜ぶことができる。
2, 変化前の状態に哀愁を感じる。
3, 変化自体への期待は存在しない。
これが、無条件の愛の継続的な姿だろう。
赤子は何度でもこけるが、
それを批判したりする無意味さは誰しも理解できる。
仮に批判したとして、彼らにはまだ言葉なんて理解できない。
批判的な言動は、全て自分の調子を落とすだけで、
むしろ、赤子の足を引っ張ることはあっても、
誰にとっても何一つ益は無い。
つまり、対象へ無条件の愛が注がれる時、
その対象は、その状態で完全なものになる。
今が永遠に続けばいいのにという感覚と、
対象の変化を純粋に喜べる感覚の両輪が、
愛という馬車の車輪であり、
これはどんな道のりであっても最高の旅をもたらす。
馬は欲望で、御者は理性だ。
この旅は、基本的に馬の頭の方向に進むが、
時折、大きな崖や盗賊の群れなどがいれば、御者がそれを避ける。
だから、全ての要素が必要で、それで完全なのだ。
そして、重要なこととして、
いかなる道のりであろうが、
「愛の状態」と「道のりの状態」の関係は、
分離して解釈することが可能である
というのは面白い部分だろう。
「ああ、本当にそっちに行っていいのだろうか、、、」
と御者が思い悩む必要など一切ない。
御者の役割は、欲望の選択ではない。危険の回避だ。
馬はこういうだろう。
「それを決めるのは君ではないよ。僕の役割を奪わないでくれ。」
御者の緊張は、躊躇いとなり、
躊躇いは、その願いの通りに危険を顕現することになるだろう。
ならば、危険がなければ、手綱は緩めておこう。
大切なことはリラックスだ。
そうすればいい旅になる。
自らの幸せを躊躇う必要など、どこにもない。