ある行動の後、予想される結果が脳内に映写される。
予想と異なる結果が現実にもたらされると、
その差異が、我々に予想の前提についての懐疑を、
計算させるためのトリガーとして機能する。
簡単に言い換えると「予想と違ったのはなぜ?」という問いが、脳内に想起される。
そもそも、ほとんどの予想は無意識下で行われるので、
この問いに即座に回答することを、意識に任せようとすると、
つまるところ、悩みとして反芻されることが多い。
悩みに対して、適当な回答を文言化してみたところで、
脳を完全に納得させて静めるという流れは困難を極める。
さて、ここに予想と期待の微妙な違いを考えるきっかけがあるように思う。
自らの行動とは無関係に、起こりうるすべての現象を可能性 P と置くと、
P の内、自らの行動と関連して起こりうる現象、つまり関連的な予想の全てを R として、
その予想群の内、自らが起こってほしいと期待する現象群を E として、
E ⊂ R ⊂ P という包含関係を考える。
すると、その当人が持ちうる悩みの多さと、
その人が前提としている期待集合の狭さは比例するのでは?という仮説が立つ。
これは、予想と現実のギャップの計算の精度云々は、
おそらく本質的な問題ではなく、
想定している可能性の範囲が、
より重要な意味を持っているのではという気づきを与えてくれる。
範囲への考察は、
AかBか、白か黒かといった二項対立が最もシンプルだが短絡的とすれば、
AかBかCか、赤か青か黄か、といった複数の連立へと進み、
最終的には、なんでもありうる、というところに帰着していく。
なので、完全な予測と、そもそも予測しない、ということは、
本質的には同じ意味を持つようにも思う。
そして、期待を手放すということは、EをPの範囲に漸近させていくことだ。
どのような結果についても受け入れる準備を整えていくということは、
現実について、無条件の愛を抱いていく姿勢と繋がっているのだろう。
常に、自らに最も最適な結果が提供されているという仮定に立ち、
結果に対して洞察を深めていくことは、我々の視界を広げる。
もしかすると意味などないかもしれない事柄に対しても、
何らかの有益な意味を見出せる知性を鍛えていくことは、
どのような現実をも受け入れる力として機能するのではと思う。