海揺録

自律とか、自由とかが、たぶんテーマです。以前は、精節録というブログ名でした。

「言葉に寄生する悪魔と、凪」

世にある何らかの現象を、理解しようと試みる。

 

そのときに、人は言葉に頼り、定義を考える。

 

定義は、前提や枠組みを必要として、

真理らしき何かを見つければ、自らをその箱に閉じ込めるかのように、生を捉える。

 

現代人の多くが、時間を無意識に気にしてしまうように、

浸透した概念は、我々の意識を占有し続ける。

 

元々、定義も、概念も、道具であったはずなのに、

いつの間にか、自らの手枷、足枷のように、なってしまうことは多い。

 

脳内で反芻される言葉が、その鎖を強く縛り上げていく。

緊縛の跡、それに伴う痛みを、悪魔は好む。

 

自らが使役していたつもりの「言葉」によって、

油断していると、我々は支配されてしまう。

 

皆の頭に響く悲しい音が、どうか風とともに流れますように。

 

静かな音の中にいるとき、心の波が、穏やかでありますように。

 

凪。

 

 

「虚無に進む国」

昔、ある国があり、そこは教育熱心ということで有名でした。

 

とある旅人はその噂を聞いて、その国を訪れてみました。

 

そして、旅人が見た光景は次のようなものでした。

 

 

子供が「あれをやりたい」と言えば、

大人は「それはだめです」と返し、

 

子供が「これをやりたくない」と言えば、

大人は「これをやりなさい」と命じていました。

 

そして、大人たちは口癖のように

「やりたいことがわからない」とぼやいています。

 

彼らは、

やりたいことをやっているときには罪悪感にさいなまれ、

やりたいことをやっている人をみると無性に腹を立てています。

 

その罪悪感と苛立ちは、

子供達のためという大義名分のもとに、

子供達の教育に向けられています。

 

また、自分たちこそは教育熱心なのだと信じています。

 

さらに、

抜け殻の人格は、

役割を与えられなければ、絶望し、

役割を与えられることで、絶望を回避します。

 

おそらくそういう背景で、

この国には、役職が山のようにあり、

大人たちは自分のことを話す一番最初に、

自分が何の役職であるかを語るのです。

 

さて、旅人は、

このような仕組みが、いつ始まったのか気になりました。

 

歴史を辿るうちに、ある声が聞こえてきます。

 

人の心の中で、罪や絶望、恥辱、そういった感情を反復しては、

人の行動を制限している声が、確かにあるのです。

 

心は、慎重さをもってその声を聞かなければ、

本人の声なのか、悪魔の声なのか、区別が難しいようです。

 

 

旅人は、国の中心の寺院に立ち寄り、

大きな鐘を鳴らしました。その音が国中に響くように。

その一瞬だけでも、その音が、悪魔の声をかき消すようにと。

 

彼は、祈りと共に、この国を立ち去りました。

 

この日の旅人の日誌には

「自由とは、自分の両耳を自分の両手で塞ぐこと」と書き残されていました。

 

 

「奴隷と腕輪」

昔、ある王国では、奴隷の首輪を用いて、

奴隷の品質を一目で分かるようにしていた。

 

白銀、金、銀、銅、ダイヤモンド、など、

素材による違いはもちろんのこと、

装飾や、紋章など、さまざまな工夫が施されていた。

 

王国の思惑は、上手く機能した。

奴隷たちは、その世代を経るごとに、

自らの首輪の価値を高めることに強い執着を抱くようになった。

 

彼らは首輪のために、一所懸命に働いた。

 

次第に、この価値観に歪みを感じる者の数は減り、

首輪が自分のアイデンティティとなる者が増えた。

 

あるとき、視察に来た隣国は、

奴隷たちの懸命に働くその様を見て、

そこから気づきを得た。

 

彼らは、装飾だけでなく、

さらに一工夫を加えた腕輪のようなものを自国に流通させた。

 

瞬く間に、その腕輪は世界中に広がった。

 

その腕輪の中心には、短い針と長い針が付いており、

それが日の出と日の入りを教えてくれた。

奴隷のリーダーたちは、好んでこの機能を用い、遅刻を罰した。


さらに時を経て、王たちはふと気がつく。

 

もはや、腕輪など与えなくとも、

奴隷たちは、見えない鎖で、

自らを自発的に縛り上げているということに。

 

 

時はさらに経った。

さまざまな王国は民衆によって打倒され、

民衆主導の社会が広がった。

 

 

しかし、皮肉なことに、

例の時を刻む腕輪は、一層、流通を強めた。

 

未だに、ステータスを象徴し、

人々の意識に制約を課している。

 

そして、このために喜んで働く人々は、多い。

 

 

科学、動物、天啓

想起された特定の行動のイメージについて、

実際に身体や思考が駆動する段階に進みづらくなるように自動的に施される、

精神的な違和感の一種がある。

 

「レンガを積む」という文脈よりも、

「家を建てる」という文脈に対して発動しやすい。

 

より複雑なもの、

より段階的なもの、

より統合的なものに着手しようとする際に、生じやすい。

 

小さな行動が何らかの衝動で、

すでに活動がスタートしている場合、

その後、大きな行動にシフトしていくとしても、

それが生じにくい。

 


静止した物体を動かすのは重く、

方向的な慣性が効いている物体を順方向に動かすのは軽い。

 

この視点であれば、始動に鍵がある。

 

大きな薪に着火するのには時間が掛かるが、長く燃える。

小さな薪はすぐに着火するが、燃え尽きるのが早い。

 

この視点だと、コンビネーションとその順序に、燃焼の具合は依存している。

 

水路の傾斜に起伏の少ない水流は流れやすく、

起伏の激しい地形では、水は留まり、澱みやすい。

 

これは、整地の問題だ。

 

作業中に周囲が無秩序に騒がしいとき、集中は乱れ易く、

心地のよい音がBGMならば、そうはならない。

 

心の静かさと、フォーカスには関連がある。

 

質量の重い物体を、下り坂に向かって押し出す。

駆動に時間と労力を要するが、

一度、転がり始めれば、全てを薙ぎ倒して進む。

 

脳の機能性と、過集中には、こんな関係式がある?

 


個人の創造力に比例して、反作用している力がありそうだ。

大気圏を抜けるまでの抵抗力というのがある。


想像しうる魅力の高さが、推進力のように機能する。

これは、赤い炎。


無為に静かに流れる自然な波は、恒久的な浮力を生む。

これは、青い炎。


心の調べに耳を傾けて、青い炎で心身を温める。

浮かび上がった空で、進路を感じる。

星に手を伸ばし、赤い炎でさらに高く。


朝、静止から始まるのは、地表を足の裏で感じるためだ。

勢いに任せて進んだ空があっても、

今日また、地に足をつけて、

冷静になって選び直すことができるようになっている。


羽を休めた鳥が、

掴んでいた枝を飛び立つときに選ぶ言葉を思う。

 

「いい天気だ。あっちの枝のほうが日当たりがよさそうだ。」

 

「今日は風が強い。風向きに飛べば気持ちよさそうだ。」

 

「何か妙な感じがする。今日は身の回りを整えておこう。」

 

自分の全ての感覚を信頼するところから始まる。

 

それらを、

単に動物的な怠惰性の表れとして克己しようと捉えるのか、

神體に示される天の導きとして何らかの気づきとするのか、

私たちは、そのどちらでも選ぶことができる。

自分が好ましいと感じる世界を選択する自由が、

無条件に与えられている。

 

 

ある船団が大海を航行していた。

千年に一度の大嵐に遭遇した。

 

船の一つは「もうだめだ。こんな嵐じゃ、この構造の船は壊れてしまう。」と諦めてしまった。

 

他の船では「こんなの無理だろ。どんなに頑張っても帆の操作すらできない。」と無気力に陥った。

 

しかし、ある一つの船では「これは試練だ。必ずどこかに道があるはず。希望を探そう。」と前を向いていた。

 

嵐が過ぎ去ったあと、船団は崩壊していた。

 

さて、それから数年後「大嵐の乗り越え方」という航海術の本が出版された。

 

この千年に一度の大嵐がもたらした教訓は、

航海士の常識を覆し、嵐と船の沈没の統計の数値は大きく塗り変わり、

ほとんどの船に嵐に負けず帆を操作するための機械が設置されるようになった。

 

天啓的知見は、科学的知見を根底から揺さぶり、動物的知見に力を与える。

後者ふたつは、困難において統計的な諦めや、肉体的な無気力をもたらすが、

前者は、困難の大きさに比例して、大きな気づきをもたらす。

 

 

想像の、さらに外。

最高に面白いゲームを買ってくるとする。

その同じ日に、ゲームの攻略本も一緒に買ってくる馬鹿はいない。

 

最高に面白いミステリー小説を読み始める。

その最中に、ネタバレサイトを閲覧する馬鹿もいない。

 

一番、難解な壁を試行錯誤しながら登攀する。

そのプロセス自体が壁を越える愉しみのまさに中核なのだ。

 

予想が容易いミステリーやサスペンスであっては、なんとも味気がない。

 

うまくいくことが果実だとして、スーパーに陳列されたスモモと、自らが苗から育てた果樹に実ったスモモでは、その味わいに雲泥の開きがある。

 

過程を愛することで、最も豊かな味わいを感じることができる。

 

 

途轍もなく面白い展開を、

そのときに面白がるために、

先の展開はベールに包まれている。


ゲームの難易度設定がおかしいとすれば、

それは、プレイヤーの能力も

それに比例しておかしいレベルにあるという証左だ。


真に欲する感覚がベールの中ならば、

どうしてそれを事前に想像できようか。


僕たちは、想像しているそれを求めているようで、

本当は、想像のその先を欲している。


雲を掴むような試行に身を焦がしながら、

未だ光すら届かぬ遠くの星に恋焦がれている。


物理空間に飽いた意識は、

抽象空間への探索に乗り出していく。


文字での探索は、

陸路の旅のようなもので、いずれ限界を迎える。


感覚による探索は、航路の旅。

次の地点など、島に近づくまで視認できない。

 

波に任せて進むのみ。

 

 

春に向かう。

 

頭の習慣に、心がそっと石を置いて、流れを変える。

 

外には春の長雨が降りしきる。

 

水流は、無為の湖へと合流し、その時を待つ。

 

植えていた種が、水を浴びて、眠い目を擦る。

 

風が、空気の時代を変える。

古いものは新しく。

 

風がやめば、空気は文化になる。

新しいものは古く。

 

太陽の光の受け方で、空気は温度を変える。

温度は対流をうながし、風を呼ぶ。

 

どんな瞬間も、望まれてそこにあり、

次の瞬間の意味につながっている。

 

だから我々は、意味のために生きなくていいのだ。

 

生きたいように生きて、そして死ぬ。

それが本望の意味だ。

選曲と静寂

電波を通じて、ラジオから音楽が流れている。

 

脳波を通じて、自分の頭の中に音楽が流れている。

 

チャンネルは、選択することができる。

 

好きな音楽を選ぶのに、蘊蓄はいらない。

 

ただ感じるままに、選べばいい。

 

時には、何も聴いていない状態も選択できる。

 

静寂は、選択の故郷だ。

 

心波と、脳波がフィットしているとき、

私たちは、本質を生きている。

 

一致も素晴らしい。

 

調和も心地がよい。

様々な和音を楽しむこともできる。


チャンネルとは、観念の具象だ。

言語を超えて抽象化された観念は、感覚になる。

 

浅い瞑想は、脳波が奏でる音楽のリストを眺めることに近い。

深い瞑想は、そのリストを閉じて、静寂における心波を感じることだ。