我々がそれほど「平面的な論理について」合理的ではないことは、
もはや論証するまでもない。
今日の働きが明日の食い扶持をつくるということ。
今年の働きが来年の豊かさをもたらすということ。
そんな因果関係の論理は、誰しも自明なのだ。
給与が高い方が、生活水準があげやすいこと。
立地がいいほうが、環境上の優遇が発生しやすいこと。(トートロジー)
そんなことは、火を見るより明らかだ。
しかし、僕たちの時間は、
そこまでこの自明な論理に基づいて費やされているわけではない。
顕著にも「何の生産性もないかのような行為」の全般は、
若い人々の時間を奪い合う(?)ように見える。
ここにあるのは「立体的な理性」とでも言い換えられる。
すなわちそれを覆っているのは「感情」だ。
感情が理性を覆っているような包含関係を仮定すると、
「馬鹿」は決して馬鹿ではないということに気がつく。積層の問題。
球体の大小はあるに違いない。
さらに大きな球体から眺めている人々は、
その内側の窮屈さを軽蔑したり、憐んだりと忙しいように見える。
そして、その人々もまた、その外側から同じような視線に晒されている。
感情は球体の外に染み出している。
「論理」の枠に収めるためには、
思考の深度が不足してしまうことがあるのだ。
胸が熱くなることには、基本的に脳の処理は追いついていない。
合理的に考えて流す涙など、誰の心も震わせなどしない。
目の前に積まれた大金に、
行動を支配されないとすれば、
君はもう「心」をしっかりと両手で包んでいるのだ。
僕たちは、「そうした方がいいから」という
客観的な論理(?)に切迫感や焦燥感を煽られることによって、
感情をいったんみないようにして、足を踏み出すこともある。
ただ、これは続かないのだ。
誰かを従わせておくための「論理」や、
「報酬系の充足」に関する「にんじん」をぶら下げることでは、
相手の心を芯の底から震わせることは決してできない。
僕らが何かに必死になったり、
さらには人生を賭けようと思うとき、
このためならば死んでもいいと思えるとき、
その全てを「言葉」をもって、伝えることは極めて困難なはずだ。
ほとんどの「幸福」は、
その姿を言葉にしようとしたとき、
どうしても「温度」が変わってしまう。
「大義」を語るときに聴衆の心が揺れるとすれば、
語る人の腹の底には、
語る以上の大義が氷山のように深く横たわっているからだろう。
その表出されずにぐつぐつと煮えたぎる「英気」は、
言葉の端々から揮発しては、聴く人の思いを震わせる。
僕たちの「両足」は、
そのような「英気達」が志す「何か」に辿り着かんとして、
道無き道を歩もうと「自律」する。
これは、勇気だ。
勇気は、論理だけでは奮い立たない。
自分の内側にあるマントルを叩き割って、
さらにその内側から湧き立っている「意志」を、
常に感じ続けることで、心の温度を上げることができる。
後悔など二の次と思えるならば、誰も君を止めることなどできない。
安心感で包み込むような繊細な光が心の内側にある。
その光と同じ場所に、灼熱たる「意志」が脈動しているのだ。