海揺録

自律とか、自由とかが、たぶんテーマです。以前は、精節録というブログ名でした。

感情を揺らす

我々がそれほど「平面的な論理について」合理的ではないことは、

もはや論証するまでもない。

 

今日の働きが明日の食い扶持をつくるということ。

今年の働きが来年の豊かさをもたらすということ。

そんな因果関係の論理は、誰しも自明なのだ。

 

給与が高い方が、生活水準があげやすいこと。

立地がいいほうが、環境上の優遇が発生しやすいこと。(トートロジー

そんなことは、火を見るより明らかだ。

 

しかし、僕たちの時間は、

そこまでこの自明な論理に基づいて費やされているわけではない。

 

顕著にも「何の生産性もないかのような行為」の全般は、

若い人々の時間を奪い合う(?)ように見える。

 

ここにあるのは「立体的な理性」とでも言い換えられる。

すなわちそれを覆っているのは「感情」だ。

 

感情が理性を覆っているような包含関係を仮定すると、

「馬鹿」は決して馬鹿ではないということに気がつく。積層の問題。

 

球体の大小はあるに違いない。

さらに大きな球体から眺めている人々は、

その内側の窮屈さを軽蔑したり、憐んだりと忙しいように見える。

 

そして、その人々もまた、その外側から同じような視線に晒されている。

 

感情は球体の外に染み出している。

「論理」の枠に収めるためには、

思考の深度が不足してしまうことがあるのだ。

 

胸が熱くなることには、基本的に脳の処理は追いついていない。

 

合理的に考えて流す涙など、誰の心も震わせなどしない。

 

目の前に積まれた大金に、

行動を支配されないとすれば、

君はもう「心」をしっかりと両手で包んでいるのだ。

 

僕たちは、「そうした方がいいから」という

客観的な論理(?)に切迫感や焦燥感を煽られることによって、

感情をいったんみないようにして、足を踏み出すこともある。

 

ただ、これは続かないのだ。

 

誰かを従わせておくための「論理」や、

報酬系の充足」に関する「にんじん」をぶら下げることでは、

相手の心を芯の底から震わせることは決してできない。

 

僕らが何かに必死になったり、

さらには人生を賭けようと思うとき、

このためならば死んでもいいと思えるとき、

 

その全てを「言葉」をもって、伝えることは極めて困難なはずだ。

 

ほとんどの「幸福」は、

その姿を言葉にしようとしたとき、

どうしても「温度」が変わってしまう。

 

大義」を語るときに聴衆の心が揺れるとすれば、

語る人の腹の底には、

語る以上の大義が氷山のように深く横たわっているからだろう。

 

その表出されずにぐつぐつと煮えたぎる「英気」は、

言葉の端々から揮発しては、聴く人の思いを震わせる。

 

 

僕たちの「両足」は、

そのような「英気達」が志す「何か」に辿り着かんとして、

道無き道を歩もうと「自律」する。

 

これは、勇気だ。

 

勇気は、論理だけでは奮い立たない。

 

自分の内側にあるマントルを叩き割って、

さらにその内側から湧き立っている「意志」を、

常に感じ続けることで、心の温度を上げることができる。

 

後悔など二の次と思えるならば、誰も君を止めることなどできない。

 

 

安心感で包み込むような繊細な光が心の内側にある。

その光と同じ場所に、灼熱たる「意志」が脈動しているのだ。