この記事はわからない人にはさっぱりだと思う。
この抽象的なブログを読みに来る方々には、
しかしおそらく似たようなことを感じている方が大半かと思って、
書いておくことにした。
まず、人を覆う「気」のようなものがある。
これは感じる人は感じるし、分からない人には分からないのだろう。
気分と「神経系」の話は化学的で分かりやすいが、
気分と「気」の関係は、これは体感的なのだ。自明な人には自明。
しかし、この感覚は、漫画の中の話かのように、
理性によって蓋をされていることもある。
不思議な話だ。
確かにそう感じているのに、
そう感じていることはおかしいものだと、
社会通念によって、大抵は感覚を閉塞してしまうのだ。
しかし、例えるならば、
恋愛感情がどんなに蓋をしようとも理性とは関係なく揮発するように、
感覚たちというものは、それが根源的であればあるほどに、
閉塞された空間を内側から破壊しようと踠くのだ。
能力といってもよく、その感覚の大小や鮮明さはまさに人それぞれだろう。
ほとんど小さいか持っていない人にとっては、
そもそも自らが揮発している「気」について、意識することすらできない。
だから彼らは、
バレバレの嘘をついてもバレていないと思っているし、
悪事を働いても、言わなければ自らの「悪性」が露呈することはないと思っている。
社交辞令や上っ面の媚び諂いも、
彼らにとっては、ある種の合理的な行動なのだ。
その行動に伴う「気」からは欺瞞性が漏れ出ているが、
「気」を読まれるなどということは、彼らの頭の中にはないが故である。
「気」には、本人が無意識に閉じ込めた様々な葛藤すら顕れてしまう。
「自慢」ひとつをとっても、それが嫌味を伴うかどうかは、
この潜在的な葛藤の有無が関係しているのだろう。
もちろん、受け手の心理的要素も多分にあるだろうが。
別の角度から話をしてみよう。
尋常性疣贅というイボがある。
これは放置していても基本的に自然治癒しないらしい。
感染力は低い。ふとしたきっかけで傷口から感染して、
そこに根を張り、寄生的に増殖していく。
根治するには、まさに根絶やしにする必要があるのだ。
表面に出ている部分を切り取るだけでは、
むしろ彼らを増殖させていってしまう。
エネルギーにも似た性質がある。
何らかの精神的なトラウマや心の深い部分に、
ふとしたきっかけで寄生してくるウイルス的なエネルギーがある。
寄生的というのは、その名の通り、
宿主が得たものを対価なく横取りし続けるという意味だ。
基本的に寄生側は、自らの惨めさを直視することを避けている故に、
感謝や謝罪といった能力を喪失していることが多い。
その代わりに発達していくのは、
他者を批判したり、非難したり、罵倒したりといった、
自己の外側を相対的に貶すことによって、
自己の惨めさをいくらかでもましにしようとする、さらなる惨めさなのだ。
寄生して得た分について、
そのままフリーライドして終わりであれば、
寄生側の行動というのはなかなか狡猾な生き方とも思えるが、
そうは問屋が卸さないらしい。
理由は定かではないが、
「気」には「貸借性」というものが付帯していて、
あまりにも肥大してしまった累積貸借は、
意識的、無意識的に関わらず、
何らかの形で彼らを「返済の運命」に巻き込んでいく。妙霊。
最悪、死んだ人を知っているが、
もしかすると、死で終わるという形はまだ優しい方なのかもしれない。
さて、分析はこのくらいに。
より大切なのは、実際の攻守についてだ。
まず、寄生的な連中には「謝」の姿勢を表さないこと。
次に、互恵性のみえない関係は早々に遮断すること。
こういったことが表面的な防御となる。
本当に話したい内容は、次。
他の人の「気」がみえるのであれば、
自分の「気」がどのように動いているかも、なんとなくみえるはず。
多少なりとも「動かしてみたり」することもできるかもしれない。
心臓のような動きをしている中心的なエネルギー体があることに気がつくだろうか。
もしかすると、これが無い人もいるかもしれないが、
そうした人はここまでこの文章を読まないはず。意味がわからないから。
この中心的な鼓動の周りには外郭があるはずだ。あるいはあったはず。
自分の「感覚」を信じて、この脈動を大きく、大きくしていく。
すると外郭にヒビが入る。あとは分かるだろう。
内側から脱皮を繰り返すように、エネルギーを湧出するのだ。
外郭にへばりついていた寄生連中は、その破壊と共に消え失せる。
灼熱と化した「気」は、熱すぎて誰も奪えなくなる。
こうして周りは同じ温度になっていく。