海揺録

自律とか、自由とかが、たぶんテーマです。以前は、精節録というブログ名でした。

「分からない」を定義する。

見えないけれど感じるもの、

どのように説明したらいいが分からないが有用なもの、

そういったことは意外とありふれている。

 

過去、四色定理が証明されていないとき、

印刷業者の人々の間では、直感的にその存在が知られていたように、

理由がはっきりとは「分からない」ものでも、

どうやら確からしいぞという事柄はある。

 

科学的な根拠には、これは至上の価値があるといっても過言ではないものの、

それのみを信仰(?)することによって、

自らが直感している「分からない」が確からしいことに、

覆いをかぶせてしまうのは「正しいが狭窄な視野」とも言えよう。

 

飛行機が飛ぶ理由が証明できないことで、

異国への旅を諦めるとしたら、

行ける世界、見える世界が限られるのは当然だ。

 

かといって、

世に言う「スピリチュアル 」の教祖が、

人間界と霊界を行き来していることを聞いて、

その「誇大した視野」の恩恵にあずかろうとすることは少し愚かにも思える。

ここに説明は不要だろう。

 

これは一見グラデーションの問題かと思ってしまうが、そうではないはずだ。

これは「自己の感覚」の問題なのだ。

 

教祖らの誇大妄想によって被害を受けてしまうケースでは、

根本的な部分で、自らがどう感じるかという「感覚の認識」が

正常に機能せず、他者にその判断を委ねていることが、

見受けられるに違いない。大抵。

 

「彼が『ピーマン』を好きだと言うから、

私も『ピーマン』が好きなのだ」という論理。

味覚が悲鳴を上げていようとも「自分」が消失した身体では、

この人は「ピーマン好き」になってしまう。するとどうなるか。

「味覚の悲鳴」は、表面的には「快適な感覚」として錯覚していく。

表面的な自分と、潜在的な自分は日を追うごとに乖離していく。

この人は、いずれ自分自身から壮大な復讐劇を見せられるか、

人格が崩壊して自死するだろう。

 

 

さて「気」の話をしたい。

自分が纏っている気、他人が纏っている気、

空間に充満している気、少なくとも私は感じることができる。ある程度。

 

一見清潔そうに見える彼であっても、

纏っている「気」があまりにも気持ち悪く、

同じ空間にいることすら嫌になることも稀ではない。

 

どぎつい言葉を発している人であっても、

その人が言葉にのせている「気」が心地いい場合もある。

汚い怒りと、清々しい怒り。そんなこともあるのだ。

 

感じることができるが、その「気」の正体については分からない。

空気を構成している二酸化炭素や酸素などの元素の比率が・・・とか、

そんな説明があれば、現代的なのだろうが、

おそらく、この先で科学的な知見が進んで行った先であっても、

そんな比率の話に帰着するような気はしない。これも直感、ある種の証明なき感覚。

 

 

さて、

「分からない」ことを予想したり、定義したり、

名前を付けてみたりしたいのは人間的だろう。

 

この人間的な営みにおいて、

数学的な思考というのは、とてもとても役に立つ。

 

ある感覚を「A」とすると、

別の感覚を「B」とできる。

 

時間の経過でどのように変化するのか。

「A -> A'」「B -> B'」とでも表せるだろう。

 

具体的な命名は、いずれ分類をつくる。

それぞれの分類について、

その一般化・抽象化が進むに従って、これはもう「体系」となるのだ。

 

例えば、武道の達人たちは、

自分の「体系」を持っているだろう。

そしてこれは、説明できる部分と、説明できない部分があるはずだ。

 

「理由」が分からなくとも「分かる」という瞬間を

体験したことがないなどという人は少ないはずだ。

 

 

自己の感覚を体系化していく作業。

これによって「確からしい偉大な視野」を獲得できるのだろう。

そこからみる景色は、誰とも違うが、君にとっての絶景なのだ。