川辺にころがっている石は、
まごうことなく石であり、それ以上でもそれ以下でもない。
おそらく似た形はいくつもあれど、
生成や形状や色彩など全てについて全く同じものなど2つとないはずだ。
上流の石は下流に比べて大きかったり、
下流の石は上流と比べて角が削れていたりする傾向がみてとれるだろう。
それは「違い」だ。
大きな石は、何かを堰き止めたり、何かの土台になったりと、
それの大きさを活かした役割に用いられると、
その「大きさ」が光る。
小さな石は、何かを飾り立てたり、子供の遊び道具になったりと、
その小ささを活かした役割に用いられると、
その「小ささ」が光る。
この「光」が「価値」だ。
「違い」があってこそ、
それが多様であればこそ、
その違いの幅が大きいほど、
「価値」はその輝きを増す。
世に溢れている「価値」は、
それそのものによって成り立っているわけではなく、
それとそれ以外との「違い」によって成り立っているのだ。
賢君や偉人の「偉さ」は、
その者たちに内在しているというよりも、
その時代の社会的な文脈において、
その人以外の人々との「違い」にこそ存している。
「価値」とは決して独立しているものではなく、
それとそれ以外の「違い」の中に存在している。
するとどうだろうか。
「みんな同じ」の「理想的」帰結は、
全員が「完璧」となることのようにも見える。
皮肉なことに、もしこの理想が実現してしまった場合、
皆が「完璧」となることで求めていたはずの「価値」は皆が失うことになる。
なるほど。「価値」は希求すべき対象ではないのだ。
「価値」とは、活用の帰結として輝く光であって、つまり「結果」のことだ。
では、本当に我々が欲するべきはなんだろうか?
「価値」の定義に戻ろう。その実態は「違い」ということだ。
であれば、我々は生まれながらにこの「違い」を保持している。
とすると「価値」をうむために必要となるものは
いかに活用していくかという「知恵」のみだ。
知恵が「違い」を活かす。
ならば、自らにその「違い」に光を見出す知恵があれば、
その発見を喜ぶということが理にかなっている。
逆に、この「違い」を潰そうとする思考様式が行き着く先には、
「誰にも価値のない社会」が遊離するだけだろう。
だから、このコンテクストにおいて「是正」とはただの戯言だ。
即時的に「価値」を求める思考様式は、
結果的に「違い」を潰す働きを促すことになりやすい。
これは自己回帰を繰り返しては、
最終的に自分が生まれながらに保持していた「違い」のほとんどを
「欠点」として「是正」してしまうことにもなる。
自分がもっている価値尺度の数から、
自分がどれだけ自分の「違い」を活用して、
「価値」を生んでいるのかを知ることができるのであれば、
その数を減らす愚行は今すぐにやめるのが合理的だ。
社会がもっている価値尺度の数が、
その社会の本質的な成熟と比例しているのだろう。
そして、自分の精神的な豊かさは、
自分があらゆる「価値尺度」の中で、
一体何を好み、それをどのように感じるのかという感情的領域について、
体験的に学習を繰り返していく作業で育まれる。
君に自信がある理由は『君が大事にしているもの』の中に、
「自分」が活きる領域が存在しているからだし、
君に自信がない理由は『君が大事だと思っているもの』の中に、
「自分」が活きる領域が存在していないからだ。