依存と罪悪感は循環関係にある。
自分に罪を着せるものは、
常に自分より優位にあらねばならない。
厚顔無恥な貴族は、
奴隷を痛めつけることに
後ろめたさを感じないが、
奴隷は、痛めつけられている自分を省みて、
次は主人に目をつけられないようにと、
「罪」の意識を増やしていくことになる。
「あれもだめ」「これもだめ」
というのは、だから奴隷の言葉なのだ。
本当に「悪い」のは、
いじめている行為そのものであろう。
そこに理由があろうがなかろうが、
そんなものは関係ない。
「罪」は意識であり、
「悪」とは別物だ。
なるほど。君が「罪」を感じているとき、
「悪」は君以外のところにあるのだ。
仮に、奴隷たちが支配から抜け出したとして、
行動から罪の意識が消えない理由は、
悪が消えても、罪は君の中に残っているからだ。
しかし、自由の身となり、
君の主人が君となったのであれば、
君が君を許していくだけで、
罪の意識は薄くなっていくであろう。
さて、君の主人は誰だ?
思い浮かぶ顔が自分以外なら、
それは依存と罪と自己破壊への危険信号だ。