海揺録

自律とか、自由とかが、たぶんテーマです。以前は、精節録というブログ名でした。

飢餓と遊び。

ちょうどよく誰かを従わせておくには、

彼が少し物足りないくらいのものを

「安定的」に供給してあげる仕組みをそこに維持するだけでいい。

 

次第に、彼は自らの羽を使って空を飛ぶことはやめる。

使わなくなった羽は埃を被る。

そして、埃を被るくらいならと、彼は羽を捨てるのだ。

 

羽を捨てた彼は、もはや一人では飛べない。

そこで、彼の主人は彼に与えていた「物の量」を少しずつ減らしていく。

 

「なるほど。不況とはこれか。」

彼は腐りかけた脳味噌でそんなふうに現状を認識しようとする。

 

「偽りの不況」は彼を「飢餓状態」へとおいこんでいく。

すると、禁断症状に震えるように、彼は主人の命令に従うのだ。

 

「自由への翼」をもがれた状態で陥る「依存」ほど悲惨なものはない。

これは精神的に奴隷となってしまう構造なのだ。

 

ここにおいて「欲しい」はすなわち渇望であり、

そこに「生きる喜び」を見出だす様な朗らかさは一片もないだろう。

飢餓に怯える人々に「今を遊ぶ」余裕はない。

 

 

現実逃避として遊ぶのではなく、

今をよりよく生きようと遊ぶことは生命の充足そのものだ。

 

慣れないうちは、どうもこの「幸福状態」が

なんとも言えない心地に揺らぐものだけれど、

 

徐々にこの「当然」の状態は「必然」へと収束していく。

 

自分のためにも誰かのためも生きている人は、

自分で自分を殺そうともしなければ、

誰かもまた彼が死ぬことを回避しようとするだろう。

 

 

しかし「飢餓」はこの「自分のため」すら奪ってしまう。

「楽」のために「自己愛」を誠実に尽くすことから目を背けるのだ。

まるで生きるために自分の血肉を喰らっているかの様な惨劇が見える。

 

その身体は、食べるためではなく、飛ぶためにあったのだ。

その両翼は空を遊ぶために生えていたのだ。

 

奪うやつが悪い?

なるほど。そんなことはどうでもいい。

 

善悪の前に、君は自分がどうして飛ぶ喜びから目を背けているのか、

それを見つめる必要があるだろう。

 

どんな強風であろうとも、

それを災害とするのか、追い風とするのか、それはまったく飛び方次第であろう。

 

「遊べる」とは、行動の分類ではなく、行動の状態なのだ。