感情が、現実を錯覚させることは多い。
いや、錯覚している現実こそが現実で、
「実際」という事柄こそ夢に近いのか。
そんなことは知らない。言葉遊びに近い。
薬に溺れた男が、幻覚をみるとき、
彼は確かに幻覚をみているのだ。
彼の恐怖は本物であり、
彼の周囲の人々が何人寄ってたかって、
それが偽物だとどれだけ伝えたところで、
彼の幻覚を消すことにはならない。
この「幻覚」に民主主義的な回答は無意味なのだ。
常に主観が、その感情を支配する。
財布の中に10万円が入っていたとしよう。
さて、今日1日を豊かに過ごそうと思ったとき、
少なくとも私は、この全てを生活費として必要とする1日などあまり考えつかない。
仮に「足りない」とすれば、
それはお金が足りないことが根本的な理由となっていることなど稀であろう。
「不安」とはなんだろうか。
「幻覚」のように、明らかに客観的な視点が与えられるものでもなければ、
「貧困」のように、個々人の相対的観念が影響するものでもないだろう。
共通しているのは主観性か。
「不安」はどこからともなくやってきて、
気がつくとどこかに消えている。
それを繰り返すものだ。
「実際」とは無関係にやってきて、
我々の主観は「不安」を経由して感情を動揺させ、
「現実」をその理由探しの場として設えるのだ。
なんの意味もないことに、意味をもたせ、
もたせた意味によって、自らと他者を縛り上げていく。
その縄はそもそも実態のない糸で綯われているので、
「縛り上げられた人々」を何も知らない人が眺めてみれば、
その奇妙な光景に唖然とするだけなのだ。
「株式」を知らない未開の地の人々は、
いまだかつて金融恐慌で自殺したことなどないだろう。
知識や文明が「斧」となるのか、「枷」となるのか、
それは「多数決」で分かることではない。
がんじがらめの感情は、
その包装に「規則」を欲するらしい。
「不安」を揮発させまいと、閉じ込めたその箱は、必ず爆発する。
正面から見つめれば、実態がないことに判然とするものの、
恐れて目をそらし、蓋をすることで、
そもそも「嘘」の「恐怖」は顕在化していく。
川辺に転がるただの岩を一生懸命彫刻している姿がみえる。
恐怖の像を掘り上げることができたとすれば、
なるほど。恐怖が鮮明に見えていたからだ。
しかしそれは頭の中の話だった。
実際にそこに「つくりあげた」のは、
あるいは「つくりあげようとしている」のは、
他でもない。君自身なのだ。
同じ手数を使うなら、
どうせなら「希望」を彫るのが理にかなっている。幽玄。