ゆっくり進むことは、意外に難しい。
自転車を早く漕ぐことはそれなりにできても、
歩く速度に合わせて漕ごうとすれば、途端にぐらつく。
時間労働のプロフェッショナルたちは、時間をかけることを嫌う。
いずれ量が質をもたらすことを信じて拙速道を極めんとせっせかと働く。
急いで仕事を終わらせれば、余暇はその分増えただろうか。
否。仕事を終わらせた速度に乗数倍されるように仕事は増えていくことが多い。
自分の人生がまるで平均寿命からの誤差で示される時間軸上にあるかのように、その数直線を細かく切り刻み、スケジュールを載せていく。未来の位置にある自分が本当の自分だと信じて、逆算的に予定をこなしてくのだろうか。未来にある喜びはSNSで虚飾された栄光の姿と夢見て、今をゆっくりと楽しむ余裕を後回しにしていく。
僕らの人生は数直線の上で伸び縮みするお餅のようなものとでも言うのだろうか。そのお餅を味わうのは半分食べ切った後から?それまでは味付けなしでいくとでも?
世の中にはあんこやきなこ、みたらしやずんだ、それなりに味わいに彩りを足してくれる絵の具が既にある。新しく君が考え出したっていい。
一口目や二口目が美味しくなかったお餅が、なぜ最後の一口までには美味しくなると思っているのか。今までキャンバスに塗られた色が無色透明だったとして、最後のひと塗りで名作になるとでも?
焦燥は全て現実逃避であろうし、今まで楽しんでくることを怠った味覚が、最後の最後でこの世の全てを味わい尽くすことができるなど、幻想でしかない。
足を止めて聞いてみるといい。
今日のご飯は美味しかったかと。
部屋はゴミで散らかってはいないかと。
よく寝てすっきり朝目覚められたかと。
そうではない日々が続いているとして、それは君が君自身に「ひとつひとつをゆっくりしていいのだ」ということを許可してあげるまで続くことを知るといい。
栄光への焦燥や常識への過剰な適応は、平凡や凡庸、落後からの逃避が背景にありそうだが、諸行無常。執着しても風の前の塵に同じ。
他者からの烙印を恐れるあまり、自らの首を絞めるのは愚行であろう。
であれば、気持ちよく深呼吸することを優先して、烙印を押し合う社会から離れるのは一考の価値がある。
目の前の「喜び」を急ぐあまりに飲み込むことを続けていたら、喜びはその味を出すことなく排泄されるだけなのだ。そこに味がないのは、現象がつまらないからではなくて、舌の上に乗せる時間が少ないからだ。
時間には味がある。牛歩でなければ十分に楽しめないとも言えるのだ。