海揺録

自律とか、自由とかが、たぶんテーマです。以前は、精節録というブログ名でした。

ぽえむ

座学を終えたところで、学びは尽きず、しかし、枝葉の装丁を極める道は漠然と見えても、木の幹の年輪をいかに重ねるのか、それを尋ねるべき先は自らに問うしかないように感じる。

 

怠惰に打ち克つのが人生だとすれば、人間である意味は薄く、働き蟻にでも生まれてくればよかったのだ。

 

快楽を抑え込むことに価値があるとすれば、動物ではなく、石ころのようになるためにも、今すぐ火葬場へと連れて行って欲しいものだ。

 

欲の海で上手く泳ぐことこそ、至上命題ならば、哲学を想起しないような昆虫たちの生き様がそれらしく見える。

 

遺伝子の命令を素直に遂行することに幸福が宿るとして、では、客観性と嘲笑は何のために心の安定を指向するのか。

 

社会性や正義や義憤。復讐や慈善。どれだけ思想が崇高であろうとも、その思いに身体を焼き尽くされんとしていようとも、我々は、今日も飯を食らい、排泄し、眠りにつく。都合のいい天罰のみを祈り、目的論的に他者と比べ合う。

 

同じ日はなく、螺旋構造のように日々は進む。

 

気分を知る。自らの地図を描く。ときに、歴史や生態系は妥当な答えをそこに表すように見えるが、納得できる指針は、目覚めの良さに現れるように思う。

 

肉体的な2つの目は開いていても、心は時空を認識しない。矛盾する気持ちを抱き合わせて、気分をつくる。心の再帰や回帰性が僕らの哲学ならば、最小二乗法が中庸とでもいうのだろうか。

 

遺伝の成れの果てとして心が造られたとして、自らへの破壊衝動を煽動していく姿は、彼らはもう終わりにしたいと言っているようにも思う。

 

不老不死が遺伝子への勝利だったとして、遺伝子を僕らの奴隷にしたとして、どうして、奴隷からの復讐可能性を考えずにいられるだろうか。

 

世界はいずれ終わるように設計されたように思うが、きっと僕たちはそれに抗うのだろう。そして、おそらくその試みは成功するに違いない。その顛末は遺伝子たちのように、知性を高次化することによって、自己破壊を目指すことに繋がり、、、。

 


部屋の中で思う。今日も空が曇っているのだ。