安寧を願い。その心地よさの中にまどろむ。
そこに漂う心の穏やかさに、これ以上求めようもない希少さを感じる。
一生続けばいいのにとの空想は、
いつか終わってしまうことへの虚しさに寸断される。
全てを終わらせる死が救いならばと、
ありがたさで満たされた心でこの生を終えることができればと連鎖していく思考。
未だそこにない悲しみを憂いて、
未来の不安を死によって覆い隠そうとでもいうのか。
間違っているような気もするし、
死への正当な準備であるような気もする。
気がはやいとすれば、それもまたその通りなのだろう。
短絡的な生への執着を衆生にみる。
季節がきても散らぬ花の醜さを反面教師に?
今日も愛の天才に助けられている。
最も世界のあらゆる人間性から欲されている眼差しが目の前にある。
メデューサがつくる石は、おそらく呪いの一種であろうが、
優しさは、それを糧に何かを実らせることを自然に誘発する祈りの一種か。
主観以外が入り込む隙間のない幸福な時間。
交換によって入手すると壊れてしまう時間。
その価値も直観していて、今、身の丈に合っているのかと日常が囁く。
欲望には際限なくのびていく姿もあれば、
その等身大で溶け合うような姿もある。
よくよく考えてみれば「死ぬほど好き」などという言葉は、
未来がみえなくなるほど今に光があたっているような表現なのかもしれない。
もしかすると、まだまだ知らない「幸福」の形があるのだろう。
偶然に身を任せて、入水。よし分かった。深く深く。