海揺録

自律とか、自由とかが、たぶんテーマです。以前は、精節録というブログ名でした。

趣向への囚われ。

「好きなことをしたい」

「好きなことをしよう」

ここまではいい。

ここまではいいのだ。

 

これが価値観となり、

視野の狭い状況になることはまずい。

 

自らの趣向以外を拒絶し始めた時、

苦しみが同時にやってくる。

 

魚は、水の中でしか生きられない。

そこまではいいのだ。

 

「僕は川がいいのだ。今、海で泳いでいるが、僕は川がいいのだ。」

そうなるとまずい。

 

価値観への固執が始まると、

「海」の良さを考えられなくなる。

「川」の良さを神聖視し始める。

 

趣向は、それに囚われるべきものではなく、

ただ自らの喜びを高めるものであったはずだ。

 

君は「地上」でも十分に喜びをもって生きられたかもしれないのに、

「川」を好み、それに執着し過ぎた故に、

自らの首を絞めることになった。

 

呪うべきは、「川」を泳げない現状ではなく、

自らの価値観、視野の狭さに他ならない。

 

精神的な不満や苦しみは、

大抵が自らの「価値観の歪みを是正する」ものだという。

 

だからこの虚しさは気付きになった。

 

 

一番身近な例えを考えれば、異性への好み。

 

「彼女のあの感じ、とても好きだ。」

 

「彼女以外に、あの感じを持っている人はいない。」

 

「彼女が良いのだ。彼女以外は石ころだ。」

 

「彼女でなければならない。」

 

「彼女がいなければ、生きている意味がない。」

 

エスカレート。強迫観念。

 

本当にそうだろうか。

であれば、君もまた石ころ。

蔑みは自らに反射して、自縄自縛。

 

「蔑み」は価値観と視野の狭さそのもの。

 

人を蔑むとき「蔑む自ら」こそ是正しなければならない。

でなければ、君は苦しみ続けることになる。

蔑みが長ければ長いほど、

強ければ強いほど、

それは自らに跳ね返る。

 

植え付けられた価値観に

もう一度問い直そう。

「私は本当に水の中でしか生きられないのだろうか。」

「私は、何によって『魚』として定義され、この生き方をしているのだろうか。」

 

自らの趣向によって苦しんでいるならば、

本末転倒もいいところだ。

 

「歳」は尊ぶべきものであったか。

尊ぶべきは「歳」ではなく「経験」では?

「生きること」はそれのみで尊ぶべきものだろうか。

尊ぶべきは「生きること」ではなく「何に生きているか」では?

 

人間が「不幸」に陥りやすい理由は、

僕たちが、自らの生き方を是正する力を生まれながらに持っているからだ。

ならば、どうして「不幸」を蔑むことがあろうか。

 

この能力、「正しさ」を生まれながらに導く潜在哲理は、

僕が、喉から手が出るほどに欲していたものに違いない。

 

すでに持っていた。そんな話。おわり。