日々の食事で、様々な栄養素を身体に取り入れることができるとすれば、
主菜や副菜といったメニューに応じた食事バランスのなせるところだろう。
美味しいと感じることが、
すなわち適切な栄養の摂取と紐づいていたとすれば、
味覚を通して健康を維持する機能が備わっていたということだ。
日々の生活で、様々な喜怒哀楽を感じることができるとすれば、
そこには精神的な成熟か、あるいは生活そのものの起伏が欠かせないだろう。
楽しいと感じることが、
仮定的な人生の意味と紐づいているとすれば、
感情を通してよりよい人生を突き進む傾向性が備わっているのだ。
孤独な内にしか得ることのできない「何か」が確かにあるように、
おそらく、人間関係からしか得ることのできない「何か」もまた同様にあって、
それらは、他で補おうとしても土台無理な話であり、
しかし、この無理な話は往々にして実行に移されている。
孤独の静けさや落ち着きを、
群衆の賑やかさや騒がしさの中で得ようとしても、これは難しい。
逆もまた然り。
ただ、我々はこの両方を満たしたいのだ。
であれば、欲するもの自体を「今のまま」得ようとする試みを改め、
その「性質」が従属している「状態」であろうと努める方が適切だ。
「幸せ」は「性質」であり、それは様々な「状態」に従属依拠している。
だから、ひとつの「幸せ」が別の「幸せ」と同時に成り立たないことも当然ある。
ついついこの抽象概念について、全てを手に入れている状態を夢想してしまいがちな部分は避けがたいものの、それはつまるところ、結婚しながら独身であろうとするようなものであり、状態的に二律背反であるケースなどざらにあるのだ。
それを無理に「成立」しているかのように見せかける虚妄は、巷に溢れているし、それを思い込むことによって擬似的に「状態」を錯覚させていく技術も確かにあるのだろう。
ただ、これらは比較的残酷な道のりだ。小学生のうちに中学から大学までの知識を詰め込もうとする愚かさに似ている。できる人もいるにはいるが、確率的に少ない。できたとして、健康な人格が保てている場合はさらに少ない。
であれば、ひとつひとつの「状態」の卒業を決めるまでの間、その「状態」で得られうる「幸せ」をできる限り享受するような考え方の方が明らかに好ましい。それはそこまで難しくない。一人で眠る夜は静かに考え事がしやすいように、あるいは誰かと眠る夜は人の温もりに落ち着きを感じることがしやすいように、それぞれにはそれぞれの「幸せ」の特性が、そこに依拠しているものだ。
「足りない」状態というのはまさに錯覚だ。それは、今それに適切な「状態」を選択していないだけであり、そもそも「不足」を問題とみなしてしまう精神性に何かしらの欠陥が隠れている可能性が高い。
この錯覚を現実のものとしてとらえてしまうと、まるでドラッグに手を染めるかのように、背反的な状態でそれらを欲することになり、自己を偽って幻想の中で手探りを続けるようなことに陥っていく。
「あれも違う。これも違う。これかと思ったのに、やっぱり違う。」
なるほど。「違う」のは、対象ではなく、君自身だ。
はっきり言おう。君の状況の選択に問題がある。
「これが運命。」
君は稀にほざくだろう。
しかしそれは「幸福錯覚」に過ぎない。
だから、次に続く言葉はこれだ。
「やっぱり違った。」
陸の上で泳ごうと試み、海の中で走ろうと試みる。
試みは結構。しかし一言。「人を巻き込むな。」