「適切な未来の予測」なくしては、危機を察知することはできない。
危機を察知できる力があるように見えるということは、
「優れた洞察力」があるのではないかということを暗示する。
目の前に大きな落とし穴があるとき、星を眺めている人は気が付かない。
すれ違う時に、この人は危なそうだなと思って声をかけてみるのは優しさだろう。
では、目の前に落とし穴があるかもしれない時、
この人に声をかけるのは優しさだろうか。
道の勾配や怪しい雰囲気、パターン学習の結果などから、
ほとんど確率的に確からしいということであればそうかもしれない。
さて、実際には落とし穴などどこにもなかった時、
夢中になって星を眺めていた彼の喜びや楽しさは犠牲になったと言える。
リスクと喜びは、評価指標が異なるとき、天秤にかけることはできない。
失うだけの価値があったとは口が裂けても言うことはできないことが多い。
未来を主観的に予測した結果、他者に危機を煽る時、
たいてい、優しさの皮に覆われている「何か」がある。
よくあるのは、消去法的なやり方で、
自らの誘導したい道に進ませようとする思惑。
あるいは、自らの「優秀な洞察力」などを示したい顕示欲。
他人の発言に触れる機会が多いほど、
つい足元に注意を逸らされてしまう。
足元は暗く、夜は短い。
小石につまづくことを気にしていては、星の輝きを濁らせる。
胸ざわりの悪い声ならば、優しさではない。
そのざわつきに対して門を閉ざしてもいい。
危機を避けたい理由があるとすれば、平穏な心であれるということだろう。
だから、それを失ってはいけない。
ときに、危機を煽る声に、心が反応するざわつきというのは、
平穏を乱す他者の声を受け入れそうな自分に向けられた、
自分からのメッセージのように思う。
自分の声を信じる力を何度も何度も試されている。