海揺録

自律とか、自由とかが、たぶんテーマです。以前は、精節録というブログ名でした。

想像の、さらに外。

最高に面白いゲームを買ってくるとする。

その同じ日に、ゲームの攻略本も一緒に買ってくる馬鹿はいない。

 

最高に面白いミステリー小説を読み始める。

その最中に、ネタバレサイトを閲覧する馬鹿もいない。

 

一番、難解な壁を試行錯誤しながら登攀する。

そのプロセス自体が壁を越える愉しみのまさに中核なのだ。

 

予想が容易いミステリーやサスペンスであっては、なんとも味気がない。

 

うまくいくことが果実だとして、スーパーに陳列されたスモモと、自らが苗から育てた果樹に実ったスモモでは、その味わいに雲泥の開きがある。

 

過程を愛することで、最も豊かな味わいを感じることができる。

 

 

途轍もなく面白い展開を、

そのときに面白がるために、

先の展開はベールに包まれている。


ゲームの難易度設定がおかしいとすれば、

それは、プレイヤーの能力も

それに比例しておかしいレベルにあるという証左だ。


真に欲する感覚がベールの中ならば、

どうしてそれを事前に想像できようか。


僕たちは、想像しているそれを求めているようで、

本当は、想像のその先を欲している。


雲を掴むような試行に身を焦がしながら、

未だ光すら届かぬ遠くの星に恋焦がれている。


物理空間に飽いた意識は、

抽象空間への探索に乗り出していく。


文字での探索は、

陸路の旅のようなもので、いずれ限界を迎える。


感覚による探索は、航路の旅。

次の地点など、島に近づくまで視認できない。

 

波に任せて進むのみ。

 

 

春に向かう。

 

頭の習慣に、心がそっと石を置いて、流れを変える。

 

外には春の長雨が降りしきる。

 

水流は、無為の湖へと合流し、その時を待つ。

 

植えていた種が、水を浴びて、眠い目を擦る。

 

風が、空気の時代を変える。

古いものは新しく。

 

風がやめば、空気は文化になる。

新しいものは古く。

 

太陽の光の受け方で、空気は温度を変える。

温度は対流をうながし、風を呼ぶ。

 

どんな瞬間も、望まれてそこにあり、

次の瞬間の意味につながっている。

 

だから我々は、意味のために生きなくていいのだ。

 

生きたいように生きて、そして死ぬ。

それが本望の意味だ。

選曲と静寂

電波を通じて、ラジオから音楽が流れている。

 

脳波を通じて、自分の頭の中に音楽が流れている。

 

チャンネルは、選択することができる。

 

好きな音楽を選ぶのに、蘊蓄はいらない。

 

ただ感じるままに、選べばいい。

 

時には、何も聴いていない状態も選択できる。

 

静寂は、選択の故郷だ。

 

心波と、脳波がフィットしているとき、

私たちは、本質を生きている。

 

一致も素晴らしい。

 

調和も心地がよい。

様々な和音を楽しむこともできる。


チャンネルとは、観念の具象だ。

言語を超えて抽象化された観念は、感覚になる。

 

浅い瞑想は、脳波が奏でる音楽のリストを眺めることに近い。

深い瞑想は、そのリストを閉じて、静寂における心波を感じることだ。

 

 

「為さざるあって、成すあり」(2)

 

過去、この言葉の解釈を、

様々な行為の中から、為すべきことを選択し、

それ以外を行わないことによって、

成されることがあるというように捉えていた。

 

その解釈を胸に、

最も集中すべきことのみに時間を注がんとして、

結果としては、ほどほどの実りにとどまり、

集中の本質からは、何かずれていたことを覚えている。

 

今、この言葉を改めて解釈しなおせば、

何も「為していない」瞑想的な状態を中心として、

円周上に広がる結果のことを「成す」として捉えるのが、

おそらく自然なのではないかと感じている。

 

これは、原初、この言葉を残した

偉人の思いについて詮索しているのではなく、

自分自身にとって、最もらしい意味に fitting しているのだ。

 

結局のところ、

何かを成さねばという意識が中心化してしまうと、

次第に、為すことに焦りが生じる。

焦りは、集中の深度を浅くする。

浅い集中が、さらなる焦燥を掻き立て、

無為を恐れ、マルチタスク的な振る舞いに進みやすい。

結果、それぞれの仕事は浅くなり、残る実りは、やはりほどほどなのだ。

 

ならば、

無為を始点として、

まず、頭の声が霧散するまで呼吸を整える。

心の脈動が落ち着いているのを確認する。

そして、その冷静な頭と、充足しリラックスした心をもって、

意識が進もうとする方向に身を委ねる。

この委ねた結果を「成された何か」として捉える。

 

中心には、瞑想的な無為が、

その周囲を暖かく照らすように、鎮座している。

その暖かな明かりで照らされた外周の結果たちには、

その光が、彼らの意味を映写する。

 

心の状態が、自らの「成した結果たち」にその状態を鏡映する。

 

だから、大切なことは、

僕たちが、ただ呼吸をしているときに、

どのような状態であるか、ということなのだ。

 

 

何らかの成功を追い求めるとき、

その心が、あらゆる結果に対して、追い求める姿を反映する。

 

何らかの目的に執着するとき、

その心が、あらゆる目的について、執着的な性質を付与する。

 

何らかの結果にしがみつくとき、

その心が、あらゆる結末に、恐れを映し出していく。

 

 

期待を手放しているとき、

その心は、目の前に訪れた景色を、そのままに受け入れてくれる。

 

夢を抱いているとき、

その心は、歩む足取り全てに、夢に至る意味を見出していく。

 

無為にあって満ち足りているとき、

その心は、本当に大切なことに向けた、道筋のみを眼前に映し出す。

 

 

無為を中心として、

過程がそれを包み、

その外周に結果が転がっている。

 

中心の光の輝きが、

その全てに対して、意味を反射している。

 

まるで、穏やかな水辺に、豊かな自然と、文化が栄えていくように。

 

無為中心、有成外苑。

 

灯台

今という心は、

夢という城壁と共に、

歩むような姿をしている。

 

様々な表現によって描かれる夢。

それが多様なほどに、城内の平和が保たれやすい。

 

実態のない脅威を防ぐには、

実態なき防壁が必要なのだ。

 

意識に向けられうる毒を、浄化して薬とするには、

その中心に到達する前に、濾過しておければ、それが好ましい。

 

願いや欲望、祈りや夢、好奇心や興味。

 

これらそのものは、

非常に尊い性質を有している。

 

もし、それらを恐れるのであれば、

我々はこう言っているに等しい。

 

「城壁が崩れるのは怖い。ならば、そうだ。城壁は作らずにいよう。」

 

しかし、野晒しになった心では、

仮に灯されていた炎が、まだ付いていようとも、

いずれ強風がその火をかき消してしまう。

 

 

では、城壁ごと覆うような、

大炎の心ならばどうか。

 

そこにも知行合一を思う。

 

結果としての美しさ

人が、人のみが歩きやすいために舗装されたアスファルトは、ひび割れて哭く。

 


庭の景観のためだけに、日陰に埋もれた草花は、剪定されることを知りながらも、枝葉を伸ばさずにはいられない。

 


結果としての美しさを、目的としての美しさとして模倣する、その悲しみがある。

 


盆栽の屈曲を喜ぶその同じ顔で、息子の曲がった背中を正す父親。

 


愛とは、与えるというよりも、受け入れることだと気がつくまでに、もしかすると時間を必要とすることもあろう。

 


過ちを繰り返すことも、赤子が立ち上がるまでのその様をみれば、どうして愛しめないか、自らに問うことができる。

 


神が意識だとして、DNAは技術。生殖には愛がある。その結果は炉端に転がる石とも言えるし、それを拾い上げて大事にすることもできる。

 


しかし、我々、万物は、石を拾うために、存在しているわけではないのだ。

 

 

自己超越

大きな器に水が入っている。

 

長い時間をかけて、中の水は蒸発していく。

 

いずれ、器は空気で満たされる。

 

この世界には、多様な色彩をした雨が降り注いでいる。

 

少し歩けば、そうした雨が混ざり合った池や湖も見つかる。

 

水を貯めるのは、時代を追うごとに容易になっていく。

 

その容易さの反面で、空気で満たされている状態は珍しくなる。

 

必死で走っている最中だと、深い呼吸を行うのが珍しいことに似ている。

 

器を空にしているときに、中にある空気を感じられるかどうかが、

虚無感や焦燥感を味わうのか、満足感や充実感を味わうのかを分けている。

 

頭に流れる雑音から、自分の呼吸へと焦点を戻す。

呼吸の速度を少しずつ落としていく。

 

何かのために、今があるのではなく、

今のために、何かがあるのだということを思い出す。

 

成果を喜ぶために、過程があるのではなく、

過程を楽しんだ副産物として、成果が転がっているのだと視点を定める。

 

どこかに辿り着くために、旅があるのではなく、

旅のために、次の目的地が存在している。

 

今、この瞬間に、桁外れに最高な気分でいる自分をイメージする。

その自分が感じている感覚を味わう。

その感覚の慣性のままに、今日を生きる。

 

そして、そこに現れる矛盾や問題と真摯に向き合う。

この姿勢を自己超越的姿勢と呼びたい。