海揺録

自律とか、自由とかが、たぶんテーマです。以前は、精節録というブログ名でした。

「為さざるあって、成すあり」(2)

 

過去、この言葉の解釈を、

様々な行為の中から、為すべきことを選択し、

それ以外を行わないことによって、

成されることがあるというように捉えていた。

 

その解釈を胸に、

最も集中すべきことのみに時間を注がんとして、

結果としては、ほどほどの実りにとどまり、

集中の本質からは、何かずれていたことを覚えている。

 

今、この言葉を改めて解釈しなおせば、

何も「為していない」瞑想的な状態を中心として、

円周上に広がる結果のことを「成す」として捉えるのが、

おそらく自然なのではないかと感じている。

 

これは、原初、この言葉を残した

偉人の思いについて詮索しているのではなく、

自分自身にとって、最もらしい意味に fitting しているのだ。

 

結局のところ、

何かを成さねばという意識が中心化してしまうと、

次第に、為すことに焦りが生じる。

焦りは、集中の深度を浅くする。

浅い集中が、さらなる焦燥を掻き立て、

無為を恐れ、マルチタスク的な振る舞いに進みやすい。

結果、それぞれの仕事は浅くなり、残る実りは、やはりほどほどなのだ。

 

ならば、

無為を始点として、

まず、頭の声が霧散するまで呼吸を整える。

心の脈動が落ち着いているのを確認する。

そして、その冷静な頭と、充足しリラックスした心をもって、

意識が進もうとする方向に身を委ねる。

この委ねた結果を「成された何か」として捉える。

 

中心には、瞑想的な無為が、

その周囲を暖かく照らすように、鎮座している。

その暖かな明かりで照らされた外周の結果たちには、

その光が、彼らの意味を映写する。

 

心の状態が、自らの「成した結果たち」にその状態を鏡映する。

 

だから、大切なことは、

僕たちが、ただ呼吸をしているときに、

どのような状態であるか、ということなのだ。

 

 

何らかの成功を追い求めるとき、

その心が、あらゆる結果に対して、追い求める姿を反映する。

 

何らかの目的に執着するとき、

その心が、あらゆる目的について、執着的な性質を付与する。

 

何らかの結果にしがみつくとき、

その心が、あらゆる結末に、恐れを映し出していく。

 

 

期待を手放しているとき、

その心は、目の前に訪れた景色を、そのままに受け入れてくれる。

 

夢を抱いているとき、

その心は、歩む足取り全てに、夢に至る意味を見出していく。

 

無為にあって満ち足りているとき、

その心は、本当に大切なことに向けた、道筋のみを眼前に映し出す。

 

 

無為を中心として、

過程がそれを包み、

その外周に結果が転がっている。

 

中心の光の輝きが、

その全てに対して、意味を反射している。

 

まるで、穏やかな水辺に、豊かな自然と、文化が栄えていくように。

 

無為中心、有成外苑。