眠い時は、ただ眠るだけである。
眠くない時は、起きているだけである。
これが最もシンプルな欲の姿。
眠くもないのに、ベットに入って、
睡眠欲が湧いてくるのを待っている人がいたら、
これはちょっと変だ。
お腹が減ったら、何かを食べる。
お腹がいっぱいなら、また後で食べるようにする。
食欲のない状態で、
食欲が湧いてきた時に対処できるように、
何か料理を作っておく。
これは、まあよくみる光景。
ストレスなく欲を満たすための準備。
ただ、お腹が減ってないのに、
口元におにぎりを運んで、
温かいうちに食べないと、、、
なんてやってる人がいたら、
これも何か変だ。
賢者タイムに、
先ほどよりも懸命に物色する紳士は存在しない。
これは真理だ。
しかし、なぜか人間というものは時折、
欲がない時に、欲のあるふりをする。
欲のある時に、欲のないふりをする。
表面と内面が一致していないことがままある。
本人が気づいていないこともあるし、
気がついているが、それをやめられずにいることもある。
大抵、欲同士が干渉している。
好きな女の子の手を握りたいが、
緊張して汗ばんだ手のひらと、
嫌われたらどうしようという懸念で、その欲を逃避させる。
抽象化すると、好きだということだが、
あまりシンプルな解決策はなさそうにみえる。
手を拭けばいいじゃないかと思うのは、
結果しか見えていない。問題は緊張や躊躇いなのだ。
まあ緊張や躊躇いが可視化できるならまだましだろう。
もう少し入り組んでくると、
やりたいのに、身体が動かないとか、
考えたいのに、頭が動かないとか、
そんな感じのアンビバレントが生じる。
大抵、絡まった糸を解きほぐすようなプロセスが通用しない。
無意識のホメオスタシスが原因だと分かったとして、
その無意識の修正こそが大問題。
そもそも正しい方向性や、
間違いのない方向性など、決めようがない。
心地のよさを感じるとして、これが最もらしい。
無意識の問題は、
ゴール設定にウェイトが置かれているのであって、
現在の「やりたいこと」など、素知らぬ顔である。
無理やりやるなんて愚の骨頂。
誇大広告も待つのは失望。
過剰な反復は飽きを早める。
ならば、究極の自己愛とは、
どんなクレームにも笑顔で対応する顧客第一主義?
王族のぼっちゃまに使える凄腕の執事?
なんでも一緒に楽しもうとしている親友?
無理は禁物。
誘導も不快。
自然が重要。
何かを思い通りにしようと思ったその矢先に、我々はつまずく。
愛は素的なものだったのに、
期待が焦燥を引き連れて、執着が死臭をもたらす。
気持ちは気持ち。
行動は行動。
繋がってはいるだろうが、別物だ。
大切な愛をそのままに。
ただそれを抱くことも、それ自体で素晴らしいのだ。