海揺録

自律とか、自由とかが、たぶんテーマです。以前は、精節録というブログ名でした。

思索の泥濘と遊泳。

 

昔々、古の村に、悟りを得たとされる老僧がいた。

 

彼は長い間、山の中で瞑想し、多くの苦行を経て、

ついに悟りの境地に至ったと言われていた。

 

村の人々は老僧を尊敬し、彼の教えを求めて絶えず訪れた。

老僧は自らの悟りを語り、その言葉は深く、

時には謎めいていたが、人々はそれを真実の証と信じた。

 

しかし、時が流れ、ある若者が老僧のもとを訪れた。

この若者は遠い地から学びを求めて旅をしており、

多くの師から教えを受けてきた。

 

彼は老僧の言葉に耳を傾けたが、やがて一つの疑問を抱いた。

若者は尋ねた。

 

「師よ、あなたの教えは深いが、それは何年も前に得た悟りに基づくものです。

この広大な世界と、絶えず変わる万物において、

新たな真理を見つけることはもはやないのですか?」

 

老僧はしばし沈黙し、その後、深いため息をついた。

「わしの悟りは、確かに年月を経て変わらぬものじゃ。

しかし、お前の言葉には真実がある。

わしは悟りに固着し、新たな学びを求めることを忘れておった。」


実のところ、この老僧は、

自らが語っていた思想の奥深くには、

未知の深淵があることに気がついていたのが、

それに対して、見て見ぬふりを続けていたのだ。

 

老僧は、目の前の若者が、

その深淵の中に歩みを進めていることに気が付いた。

 

深淵に入るためには、

思想の体系や法則性に拘ることを手放し、

言語的な縛りも脱ぎ捨てることが必要だったが、

若者は雲を遊泳するかのように、そこに進んでいた。

 

それからしばらくして、

老僧も若者の背を追って、

新たな真理を求めて未知の地へと旅立った。

 

旅の中で、老僧は世界が常に変化し、

おそらく無限の真理が存在することを再認識した。

 

彼は気がつくと思考の固着から自由になっていた。

 

そこには、更に深い心の安寧があることを知ったのであった。