ある観念群が毛糸の玉のようになって、
それを覆うようにガラスのような、はたまた鏡のような球体がある。
この球体は複数偏在している。
その球体は、
あるときは透過的で、他と重なったり離れたり、
あるときは鏡面的だったり、それがガラス面であったり、
鏡面を内側に向けたり外側に向けたり、さまざまな様相を呈している。
球体の中心が観る現実は真実だ。
しかし、他の球体がその現実を見ても、違う真実が映る。
だから、真実は球体と同様に複数ある。
すると「自身の感覚」というものは、
疑うべくもない真実であることも同時に理解できる。
他者の真実と異なることを恐れたり、
躊躇ったり、逡巡したりする必要などどこにもない。
なぜなら、それらは端から異なっているのだから。
君がそう感じたならば、そうなのだ。
そして、それは紛れもなく自分にとっての真実だ。
それを他者がどうこう言おうが全く無関係であるし、
他者の真実が、自分の真実に対して、
何か直接的に影響を与えることは本来ありえない。
真実を歪めて球面を重ね合わせたり、
交差したり、透過しあったりすることは最終的に破綻する。
歪みは最終的にそのねじれの分の反動を生み、
分離的な力として他者を引き離す。
すなわち、
真実が共有できない相手とは、
無理に交わる必要がそもそもなく、
そんなことはできないようになっている。
悟った観念を持つ球体は、
外側に鏡面を向けて、あらゆる人の課題を表出させる役割を果たす。
一方、その対極の観念を持つ球体は、
内側に鏡面を向けて、世界は自身の「欠点」を投影する舞台として機能する。
だから、
ある人にとって世界は天国であるし、
ある人にとっては地獄となりうるのだ。
自分の感覚を信じることだ。