海揺録

自律とか、自由とかが、たぶんテーマです。以前は、精節録というブログ名でした。

真実の分離

ある観念群が毛糸の玉のようになって、

それを覆うようにガラスのような、はたまた鏡のような球体がある。

 

この球体は複数偏在している。

 

その球体は、

あるときは透過的で、他と重なったり離れたり、

あるときは鏡面的だったり、それがガラス面であったり、

鏡面を内側に向けたり外側に向けたり、さまざまな様相を呈している。

 

球体の中心が観る現実は真実だ。

しかし、他の球体がその現実を見ても、違う真実が映る。

 

だから、真実は球体と同様に複数ある。

 

すると「自身の感覚」というものは、

疑うべくもない真実であることも同時に理解できる。

 

他者の真実と異なることを恐れたり、

躊躇ったり、逡巡したりする必要などどこにもない。

なぜなら、それらは端から異なっているのだから。

 

君がそう感じたならば、そうなのだ。

そして、それは紛れもなく自分にとっての真実だ。

 

それを他者がどうこう言おうが全く無関係であるし、

他者の真実が、自分の真実に対して、

何か直接的に影響を与えることは本来ありえない。

 

真実を歪めて球面を重ね合わせたり、

交差したり、透過しあったりすることは最終的に破綻する。

 

歪みは最終的にそのねじれの分の反動を生み、

分離的な力として他者を引き離す。

 

すなわち、

真実が共有できない相手とは、

無理に交わる必要がそもそもなく、

そんなことはできないようになっている。

 

悟った観念を持つ球体は、

外側に鏡面を向けて、あらゆる人の課題を表出させる役割を果たす。

 

一方、その対極の観念を持つ球体は、

内側に鏡面を向けて、世界は自身の「欠点」を投影する舞台として機能する。

 

だから、

ある人にとって世界は天国であるし、

ある人にとっては地獄となりうるのだ。

 

 

自分の感覚を信じることだ。