自己の優先的な欲求群がどのような気質に属するものであったとしても、
ある単一の価値観によって過剰に歪められたり、
あるいは自ら歪めてしまった精神性は、
我々の日常をおおよそ長期的に蝕んでしまう。
そこに対する論理的な釈明は、脳内での価値観同士の対立を煽り、
そのとき知能が鋭ければ鋭いほどに、
自らを傷つけかねないというのは皮肉なことに思える。
抽象化のステップを重ねていけば、
対立していた価値観念が融和していく感覚によって、
傷が癒えていくこともありうる。
しかし、抽象的な思考と、具体的な思考は、
汎化的に繋がっているとは言え、個人の状況に依存する要素であるように思える。
ただ、最終的には、老化によって、我々の知能は鋭さを失い、
感覚は鈍化し、自らの傷跡すら、衰えた視力によって気がつかなくなる。
なるほど。あらゆる価値観は、この動物的な肉体劣化によって、
個人的な意味をこの世界から消失させることができるのだ。
ならば、残滓を引き継いでいく若い肉体たちは、
新しい定義をもって、観念を自らの肉体に取り込むことができる。
それにも関わらず、
抽象化された苦しみの形状はなかなか伝わらず、
個々人の具体的な苦しみの形状をもって歴史は繰り返されていく。
単一の価値観に対する挫折や渇望によって、
人生全体を呪い、他人を恨み、自らすら殺すことがある。
まるで、とりこぼしていた日常の幸せたちが、
愛情を向けられなかった子供のように、
我々の脳を這いずり回って「なんのために?」と囁き続けるのだ。
「1人で生きているのではない」といった文言を思い出す。
私はこうした自己内部における他者の存在を感じる。
価値観の呪いは世代を超えて連鎖しているのだろう。
どこかの段階で、誰かが呪縛を紐解いてあげることで、
その観念性が救われるとでもいうのだろうか。
そして、おそらく、その役割を担っているのは、
これを感じることのできるあなた自身なのだろう。