自他を分離しようと試みるそれを、エゴとか自我とか呼ぶとしよう。
目の前に、作りかけのパズルが散らかっている。
パズルのピースは、それぞれに自分の絵柄について周りと話している。
おっと、一番騒がしいピースたちをみてみると、どうやら喧嘩しているようだ。
「俺のこの緑こそが、真の森を表す色だ!」
「いや、私のこの緑こそが、自然全体を象徴するかのような美しさを持っている!」
不思議なものだ。パズルを作る側からみてみると、この2人はどうも隣り合うパズルのピースに見える。
そこから少し遠くの場所には、礼儀正しそうな仕草も見つかる。
「おっと失礼。ここは私に合っていないようでした。それでは!」
「あなたの絵柄、とっても素敵なのだけど、私とは合わないみたいですね。」
「この席にはあなたの方が相応しいかもしれませんね。」
卑屈でもなく、傲慢でもなく、謙遜とでも言えようか。
この辺りでは、配慮を持った正直でありのままの会話を聴く。
彼らはいずれ、収まるべきところに収まるのだろう。
さて、一番静かな一帯を眺めてみる。
どうも、皆、ちょうどよくはまる箇所にすっぽりとはまっている。
パズル全体から見ると、出来上がっている箇所とでも言えようか。
話し声は穏やかで、主語はほとんど「私たち」とか「我々」という言葉が使われている。
ヒントがありそうだ。主語が変わることで、視点があがる。
狭窄的なエゴは完璧な自己の境界を必死に志向して疲弊していくが、
一度リラックスしてみると、寛ぎは調和へと自然に進み、そこには平和がある。