他の生物がただ生きることを目的に生きているように見えることと比較して、人類に悲しみや不幸が絶えず、生きる目的を見出すことがときに困難に見えることは、まさに僥倖と言っていい。
我々は主観的な「好き」によって公私ともに幸福を実現できるが、さらにいえば自他共に「嫌なこと」を減らす努力や意識によって、より広大な範囲で幸福を増大させうる力を得ることに繋がる。
好きだけの世界より、好悪入り乱れる世界の方が幸福の潜在的な総量は大きいのだ。
本質的には、我々は自分が意識できる有限の範囲を超えて、自分の意識の及ばない無限の幸福たちにアプローチすることを常に考えることが、すべてと言っていい。
これは、今までの僕の中になかった考え方だ。
小さな水たまりに波紋を起こすならば、
そこに一滴の滴を落とすことで事足りるだろう。
湖畔を揺らそうと思えば、
これは雨を降らせるとそれが叶う。
大河を揺らすのであれば、台風を。
さて、大海を揺らす。
アプローチが違う。
地震ならば。