海揺録

依存や自律というものと向き合う中で考えたことを書いています。もしも、同じようなテーマについて考えている方がいれば、僕もその一人なので、共に考えていけたらとても嬉しいです。精節録というブログ名でした。

運転。

車を運転していて事故に遭遇することもあるだろう。

 

対物か対人か。

 

他人の事故か、巻き込まれたか、巻き込んだか。

 

後続がいる高速道路上で急ブレーキを踏んだら、

ほぼ間違いなく事故になるだろう。

 

事故によって身体に障害を負ったり、

車両を破損させたり、

その他の器物損壊が生じたりするかもしれない。

 

では、起きてしまった事故を起こさないようにと、車に乗ることを止めるのは正しい選択と言えるだろうか。

 

運の問題と、状況の問題を綯交ぜにすると、見えるものが見えなくなる。

 

反省すべきでないことを反省することを繰り返すうちに、最悪、君は自分の家から出ることも人に会うこともやめるだろう。

 

生きながらに死に続けた最期は、リスクを取らなかったことを後悔することになる。そのときには、もはや本当の「反省」はその猶予さえ与えられないのだ。

 

そもそも幸福状態にある人間は、

状況を選択する自由があるといっていい。

 

最小限の状況で幸福たれば、

あとはそれ以上をもたらすものごとを

足していくだけでいいのだ。

 

信教を押し付けんとする者を跳ね除けよ。

そもそも満たされている我々に

そうした執着性の「価値観」は必要ない。

 

いつだって自分が幸福であるこの状況を感じることを思い出せば、あらゆる扇動を無視していいことに気がつける。

 

「事故の原因を教えてくれているようだけれど、なるほど、一理ある。しかし、どの道を走るかは自分で決める。ハンドルを握っているのは俺なのだ。」