ライオンや熊と、その筋力を競うような人間は、一般的にはいない。
百獣の王と、考える葦では、筋力的に競える土俵など用意できやしない。
池の鯉が、餌に群がる姿をみて、
「なんとさもしい生き物か」と嘲る人間も、一般的にはいないだろう。
海を自由に泳ぐ魚たちの姿と、
自らの不自由な肺呼吸と四肢を比べて落ち込む人間も、まずいない。
亀や蝸牛のその歩みの遅さをみて、
「なんとのろまか」と罵る人間も、見たことがない。
比較の観念に、少しの濁りを加えると、そこに優劣感が顔をだす。
この観念は、どうやら自らの遺伝的性質と非常に近しい同種に対して想起されるものらしい。
自分の経験を振り返って、
社会に点在していた種々の観念に色を付けていくと、
私が最も苦手としていた、悲しくも黒く濁ったひとつの意識が浮かび上がる。
例えば、スポーツの得意な人々が、
そうでない人々の運動のできなさを馬鹿にするような仕草があるが、
こうした意識は、単なる優越感の顕示に過ぎず、不快ではあるものの、先の意識ほどではない。
先の意識は、例えるなら、
幸せそうな家庭の同級生に対して、ことさらに欠点を陰で吹聴して、
集団的な差別を行おうとするような、そんな意識だ。
私は、この意識に悲痛の黒々しさを感じる。
これを「劣等差別」の意識と呼ぶことで、その理由を整理しようと思う。
進化論的な理由を考えてみると、
特定の能力で劣位に立たされた個体は、
正面から戦いを挑むようなことはしない。
そのため、戦いを挑むならば陰から、という風になっていくだろう。
一方で、優位的な個体は、劣位的と定めた個体に対して、
優越感の顕示のために、勝敗の明らかな戦いのようなもので遊ぶことがある。
劣位的な個体は、つまり、優位的な個体に対して、ある意味で恐怖心を抱くようになる。
恐怖心は、攻撃から身を守り、適度な距離を維持するために必要だからだ。
歴史から明らかなように、陰からの攻撃は、意外と功を奏す。
しかし、残念なことに、意識の濁りは加速してしまう。
毒々しい意識は、それを纏う者を孤立させるか、
似たような意識を持つ者同士で集まっていくような流れをつくる。
周囲に悪意を振り撒きながら、
このまま段階を追って自滅の道を歩むのは自明にみえる。
もし、意識を次の段階に進めるならば、
恐怖心は、用心に、攻撃的な差別は、協力的な調和へと変革されていく必要がある。
まずは、強化された脳の回路の欺瞞を断ち切るというのが近道だろう。
優劣感の根底に流れる比較の観念については、
その色を透明に近づけていくのが理想だ。
透明なそれは、冒頭に記した動物たちへの意識のように、純粋な識別に役に立つ。
急速に炙り出され始めた社会の腐敗は、
変革の意思のない意識の淘汰を志向している比喩にみえる。
全ての意識が、ただ純粋に、自らの内側を尋ね、幸福へと進む道を選択することを祈って。