精節録

依存や自律というものと向き合う中で考えたことを書いています。もしも、同じようなテーマについて考えている方がいれば、僕もその一人なので、共に考えていけたらとても嬉しいです。

「恨み」の行方と、振り返り

僕はあまり人との会話の中でストレスを発散するということをしたことがなく、

ピークまでそれが溜まってしまうと、まず体調が悪化し、

ひどい嗚咽と嘔吐に襲われ、

それよってストレスの発散が行われていた気がする。

 

難儀な性格で身体にはいつも申し訳なく思う。

 

おそらく「一部の社会」での通例では、

 

逃げることを選択しない弱者には無理難題や責任が押し付けられる。

人々の怒りの矛先は低い所に流れていく。

人の優しさに漬け込むような人間に目を付けられれば尽く搾取の対象とされる。

大衆の手のひら返しには信念というもののカケラもない。

自分勝手な嫉妬たちは大抵その感情を攻撃に姿を変えてやってくる。

時代遅れの常識はその泥沼へと若者を引き摺り込もうと必死になる。

金銭に目の色を変えて態度が豹変する輩は多い。

権威の力を自分の力と錯覚した連中は自分が虎の威を借りた狐であることを忘れている。

白痴には自分の愚かさの自覚すらままならない。

自意識よりも実際の能力が低い方に乖離した者ほど他者を落とそうとする。

問題を解決する能力に反比例して愚痴が跋扈する。

精神年齢が低いほどに相手への要求水準が高い。

貧乏くじゲームが上手い者ほど口が上手い。

 

・・・書ききれないかもしれない。

少ない経験からの一般化。

 

 

僕のこれらに対する「恨み」は、

愛想笑いの下に隠れていたので、

知らず知らずのうちに堆積されてしまっている。

 

どうするのが善処だったのか、今の段階では分からないが、

明日からは上記のような「一部の社会」そのものと

大きく距離を置いた生活をすることになるだろうと思う。

ここまでなんとか辿り着けた自分に、なんらかの労いをしておきたい。本当に。

 

去年のちょうど今頃に書いた記事を思い出す。

不幸に陥る「優しさ」と、雪だるまの下の散弾銃」という記事だった。

綺麗な「戦略的忍耐」とは行かなかったかもしれないが、

「雪だるまの下の散弾銃」はどうやら取りに行けそうだ。

 

思い描いていたほど今はすっきりした心情ではないものの、

逆にそれが現実的で少し心地いいような気もしている。

歓喜ではなく、静かに嬉しいという感じ。

 

一人で静かな空間で味わおうとしなかったら、

見過ごしてしまうくらいに微かな喜びの感覚で、

数年越しの思いがあったことを思えば、

そのギャップにすごく不思議を感じる。

 

もしかしたら、長い忍耐の中で

素直な感情を鈍麻させてしまっただけなのかもしれない。

 

 

描いた地図はそう昔から大きくは変わっておらず、

歩き方もその予定も、都度都度調整していく中で、

だいたいその通りに歩めるものなのだと計画の偉大さを痛感している。

 

「分からないことへの対処」に関する一つの答えは「よい計画」なのだろう。

分からないことの結果が、

どちらであっても問題がないように計画が立てられていれば、

未来が予測不能であることは計画の支障にはならない。

 

目の前の人間がサイコパスの可能性があり、

自分が利用されていようが、されていまいが、

彼が自分にさせようとしている行為に関して、

それを自分自身が本心から望んでいるとすれば何の問題もないだろう。

利害が一致している状況というだけだ。

 

逆に「彼のために」という「人間の互酬性」に関する予測不能な思考を、

自分の判断材料として用いてしまえば、万が一サイコパスだった場合には、

自らを地獄へ連れていってしまうことになりかねない。

 

「どちらであっても問題がないように」行動の指針を立てるということ。

これからも肝に銘じておこうと思う。

 

20歳前後の時に本気で探求した哲学が、

今ここでも活きていることが分かって嬉しい。

 

結局「分からないもの」を考え詰めていく中で、

「分からない」という状況であっても、

「分からないままである場合」や「分かるようになる場合」などにパターンが分かれ、

例えば「分かるようになる場合」には

そこからそれぞれに予想される結果にパターンが分岐していくことに気が付き、

「分からない」ということが思考自体の歩みを止めることはないのだと、

当たり前かもしれないが、この事実に深く感動したのを覚えている。

これは「生きる意味」という命題に対しても真なのだ。

 

さて、自分が抱えている「恨み」に関して、

今はどうやってこれを処理していいものかまだ分からないが、

よりよい方法をこれから考えていけたらと思う。

 

「善処」は「思考」から始めることができるのだ。