自分で自分のことを「優しい」人間だと思っている時ほど、
人に舐められている可能性に気がついた方がいい。
自分の中に鬱憤を堆積させながら、
誰かに何かをしてあげるということは、
優しさではなく、迎合という言葉が適切だろう。
不満があるならば、
それを伝えなければならない。
抵抗を示さない者は、虐げられても自分の責任だろう。
刃物を向けられているのに、
逃げもせず、反撃の姿勢も見せない者は、
ただ刺されるだけだ。
無抵抗のまま殺人鬼に殺されることを、
「優しさ」と呼ぶ人はいない。
そして、そんな受動的態度は、卑怯な人間の格好の的になる。
つまり、抵抗を示さないことや、
迎合するような生き方は、
いつしか、卑怯な人間を周囲に集めていく。
彼らは君に無茶を押し付けながら、
「君は優しいね」などとほざくだろう。
それは、「君は利用しやすいなあ」と言う言葉と同義だ。
そもそも、
弱者が強者に対して優しくすることなどできない。
優しさを示す方向は常に、強者から弱者に対しての一方向性しかない。
子羊の矛盾した「優しさ」は、
ただその周囲に、残虐なハイエナをおびき寄せていくだけだ。
しかし、力のない子羊は、
迎合する以外の生き方をまだ知らないとして、
どうやって、この地獄から抜け出せばいいだろうか。
選択肢は2つしかない。
1つ目は、勝てない相手ならば、死ぬ気で逃げること。
2つ目は、勝算があるならば、死ぬ気で戦うこと。
「ただ耐える」という選択肢は、地獄への片道切符だ。
「耐える」選択を行うとすれば、
逃げるのか、相手を喰らうのか、
その覚悟ができた後に、
勝算を整えるための時間が必要な場合に限る。
そんな戦略的忍耐は、僕は大好きだ。
見た目は、ただ耐えているだけの奴と何も変わりはしないが、
水面下では、着々と勝機の到来へと近づいていく。
冬が長ければ長いほど、春は待ち遠しい。
着々とした日常によって、
冬を楽しむことができるならば、
過酷さは、むしろ喜びのスパイスになる。
雪だるまの下には、散弾銃が埋まっている。