自分の性欲が自分の制御の中にあることが確かに自認できるとき、
好きな相手に対する恋愛感情は、その存在が明確になる。
言い換えると、
性欲が自己制御できるようになっていると、
好きな相手を目の前にしたとき、性欲で女性を欲しているのか、
そうでないのかが自分で分かるようになる。
そもそも、性欲が自分に与える影響が微小化していれば、
その分別はもはや必要とはならず、
真っ直ぐに相手の人間性との対話を欲するようになるだけになる。
さて、しかし、ここからが問題だろう。
性欲の制御などは、ある程度の習慣の改善と、
自分の人生の目的などを明確化しておけば、
時間の経過と共に、さしたる労もなく達せられるものだ。
(渦中にいればそうは思えない時も確かにあるが、、、)
欲するものが、単純な性欲の解消ではなく、
好きな相手との「対話」となれば、
その難易度は跳ね上がる。異性間となればなおさらそうだろう。
そして、単純な好意だけでなく、
恋愛感情が絡んでくれば、対話の難易度は増していくものだ。
高揚、緊張、期待、失望、違和感、諦め、陶酔、興奮、恐怖、愛情、共感、承認。
様々な感情や概念が頭と身体を駆け巡り、支配していく。
それは、もはや性欲の比ではない。
場面場面における正しい判断があると仮定したとして、
どうしてこのような感情と概念の渦の中でそれを選択できるだろうか。
知性はまた、感情の圧力の前に、ただ呆然とするだけであろう。
そして、強烈な失敗が学びに変わる経験を繰り返すうちに、
動物的な学習によって、愚かな感情的な言動を避けるように成長していく。
それは分かる。
しかし、運命とも思えるような出会いが、ただの学習の機会へ凋落してしまうのは、どうしても耐えられないではないか。
僕は、性欲が制御できたことと同様に、恋愛感情もまた、自己制御の内にいれることができるのではないかと希望を抱かずにはいられない。「感情」をベースにした動情であることに変わりはないのだから。「感情」の暴走を止めておくという意味では類型化できるはずだ。
おそらく、恋愛感情の次は、「好意」という途方もしれない概念が待ち構えていることがその外周に見えるけれども、これは一旦置いておこうと思う。その言語のシンプルさから、どうも暴走とは無縁に思えるけれど、好意は時として狂気にすらなりうる。
性欲は、ただ無駄な刺激を避け続けるように生活を送るだけでことなきを得たが、恋愛感情に関して言えば、同じようにはいかないだろう。後者は、習慣的なものではなく、突然やってきては、生活を一変させていく。
水たまりで濡れたくなければ、水たまりのない場所を選んで歩くようにすればよかったが、突然やってくる台風は、どうも避けようがない。やれることといえば、事前の対策と準備であろう。
さて、精節録としては、新しいフェーズに入ったことを喜びたい。
第一章として、性欲の悲惨な暴走が改善された後は、
第二章として、恋愛感情への対策と準備についての考察を深め、
その暴走の抑制を目指すという段階に入っていくようだ。
暴走のない状態で、知性が賢明に判断を下せるようになれば、少なくとも、大切な出会いを感情の暴走によって愚かにも破壊してしまう悲しみを減らすことができるだろう。
そもそも、たいして性欲の制御についても明瞭な記事を書き続けて進んできた訳ではないので、今後も非常に抽象的な書き方の中で、この問題に向き合っていくような気がしているが、今の段階ではなんとも分からない。
はたして、恋愛感情に対策と準備などというものが有効なのかも知らない。ただ、なんとかしていった結果、なんとかなるような気持ちがある。
これはきっと、数年前に性欲の暴走が心身を支配していたとき、どうしようもないと思っていたところから、ここまで進んでこれたのだという事実が、背中を押してくれているからだろう。