好意について考えるとき、
好意を保持している主体と、対象となるものの、
このふたつの領域がある。
好意の中には玉石混合の感情たちが渦巻いているが、
単純化のためにこの細分化の区別はやめて一括りにしてしまおう。
さて、好意を保持している主体が取りうるアクションは、
好意の継続と非継続の間にある。
好意の対象となるものの反応というのは、
好意の受容と非受容の間にある。
人間関係はもちろんのこと、
仕事、趣味、夢など、あらゆるケースにおいて、
この一般化は当てはまるだろう。
我々を悩ませるのは、
継続と非継続、受容と非受容の間のグラデーションが、
日々変化するものであり、
かつ、自らでコントロールできるものではないがゆえに、
ただ現状を受け入れるしかないという事実を、
なかなか受け入れられないというところにあるのかもしれない。
仮に一生諦めないと誓ったところで、
未来の自分は当然現在の自分の支配下にはありなどしない。
逆に諦めることを決意したところで、
これもまた特に意味のある行為には思えない。
そもそも、対象への好意の継続性は、
自らの対象への好意を源としているのだから、
自分の好き嫌いについて、
それが元来自然なものであったように、
継続性もまた、自らでどうこうしようとするような類のものではないことが分かる。
好意の行く末に、最終的な結末など存在しないことを知る必要がある。
グラデーションの交わるその時点時点における現実が、
その好意の自然な姿なのであろう。そこに正解はない。
好意の主体は、その成就を願うことが常であるが、
好意そのものは成就しようがしまいが、ただそこにあって、
主体の願いとは関係なく、
自らの自然な姿に落ち着いているものである。
好意がみせるグラデーションに、
いちいち喜怒哀楽していては、
一生落ち着かない日々を過ごすことになるだろう。
単純な構造として、
好意の継続性があるのであれば、
それをそのままに受け入れて、
その受け入れた継続性の分だけ、
その時その時に行動を起こせばよい。
この行動に、対象の反応はほとんど関係がない。
対象の反応が受容を示しているのであれば、何も問題はないし、
非受容を示していたところで、
自らの好意の継続性が潰えるまでは行動が行われるだろう。
好意を保持している主体は、
好意の継続性のみが、その行動原理になる。
その行く末は、ただ不明なものであり、
これはもう、その時その時で、
「好意がもたらす状況」がただそこに発生するというだけである。
状況は時として感情を揺さぶるけれど、
自らでコントロールできない状況に関して、
激しく喜怒哀楽を示しているようであっては、
生き方として望ましいものであるとは言えない。
自らでどうにかできる状況に関して、
感情的なエネルギーを用いるのは大いに大切かもしれないが、
こと好意に関しては、
そこから起こる行動や結果、そして状況について、
ただただ淡々と現実を受け入れて、
あまり感情的にならないように心がけることがいいのだろう。
今の感情や行動が、
自然なものかどうかだけを気にしておいて、
特に考え過ぎず、自然であると腑に落ちれば、ただそれに従うのみ。
考える力は、考えることが有効なところに注ぎ込むのがよい。
そんな心持ちで生きていきたい。