海揺録

依存や自律というものと向き合う中で考えたことを書いています。もしも、同じようなテーマについて考えている方がいれば、僕もその一人なので、共に考えていけたらとても嬉しいです。精節録というブログ名でした。

他者否定の声。抽象化。評価の基準の改善。

前回の記事で「自己否定の声」について書いたので、 

ryozan300.hatenablog.com

 

今回は、そのカウンターパート、他者否定の声について書いてみたいと思う。

 

何気なく日常を過ごしている中で、

他人の言動や雰囲気などについて、

妙に気になる時や、疑問に思う時がある。

 

例えば、カフェでたまたま隣に座った人たちが、

「職場の愚痴」について話している時や、

学生たちが「学校の愚痴」について話している時、

とりわけ、そこに嘲笑が存在していると、

全く関係のない他人のことであるにも関わらず、

耳を塞いでおきたくなる。

 

考えるまでもないような一例なのかもしれないけれど、

ここはひとつ、一歩踏み込んでみたい。考えてみる。

 

局所的に分析する前に、

前回のも含めて分類ができそうなので、しておこう。

 

  1. 「無関係な他者」による「別の無関係な他者」の否定
  2. 「無関係な他者」による「知人」の否定
  3. 「無関係な他者」による「他者自身」の否定
  4. 「無関係な他者」による「私」の否定
  5. 「知人」による「無関係な他者」の否定
  6. 「知人」による「別の知人」の否定
  7. 「知人」による「知人自身」の否定
  8. 「知人」による「私」の否定
  9. 「私」による「無関係な他者」の否定
  10. 「私」による「知人」の否定
  11. 「私」による「私自身」の否定

 

大別して11ケースあるようだ。

前回の自己否定はこの「11」についてのことだ。

「否定」に加えて「肯定」についても考えるならば、この倍の22ケースが想定される。

 

否定や肯定を抽象化してみると、

これは「当人の主観」による「他者への評価」という意味だから、

リストアップした「否定」の部分を「評価」という文字に置換して、

11ケースに統合できるだろう。

 

客観とは、主観を出発点として、理想的な観点に漸近するような概念なので、

「当人の主観」という部分には、その人の知性に応じた「客観性」が付与できる。

 

さて、なぜ「評価」という問題は、

時として、その出力の基底となる知性の比重とは独立的に、

こうも意識を占領することがあるのだろうか。

 

例えば、大学教授からの評価と、幼稚園児からの評価を比較した時、

心理的ダメージの割合は、発信者の知性に依存しているのではなく、

受信側の「心理的な状況」に依存していることが分かる。

 

簡単に言い換えると、

「自分が気にしていること」についてのあらゆる「評価」は、

すべからく気になりやすいと言ってもいいのだろう。

 

「評価」には必ず発信者「当人の基準」が存在していなければ、

それを行うことができない。

 

だから、分析にあたって有効なことは、

「なるほど。その基準は?」という問いかけだ。

 

「評価」について納得することは、

無意識に発信者の「基準」を自分の中にインストールすることなので、

これは否定肯定問わず、慎重になった方がいいことだろう。

 

基準が他者のもので占領されていけばいくほどに、

もともと存在しているはずの「自分の基準」との乖離に苦しむのは明白だ。

 

納得しそうな時ほど、その前に「基準が何か」について、

明瞭に考え直すことを癖付けよう。

 

毀誉褒貶に「毒」があるとすれば、

その報酬を受け取る時、

付随的に「他者の基準」を無意識に

インストールしやすいということなのかもしれない。

 

「報酬の受領や批判の解釈」と「自己の心理的基準」は、

いつも意識的に切り離しておく必要があるのだ。

 

「気になる」という意識の動きは、

「自己に内在しているその事柄についての評価基準」が曖昧であったり、

二律的な状況に陥っていたり、乖離が存在していたりと、

何かしら「考えた方がいい問題」に繋がっているという認識で間違いないだろう。

 

自分が気になっていることに気がついたら、

 

  1. 発信者側の基準を問う。
  2. 発信者側の基準の論理的説明を考える。
  3. 自分の基準を問う。
  4. 自分の基準に論理的説明を考える。
  5. どちらが基準として、より採用するに値するか検討する。

 

このプロセスに入れるように、習慣化していきたい。

 

「Best」について記述することは困難であるが、

「Better」についてであれば着実に歩みを進めることが可能なはずだ。

 

そして「物事を優劣で判断する」というのは、

後天的に植えつけられた癖のようなものだから、

この改善作業が最終局面に近付くほどに、

 

基準の上限下限の幅はどんどん広がっていき、

全ての基準が基準としての意味を持たなくなるような未来が想定できる。

 

人類の知性が進化の過程を逃れられない以上、

マーケットはいずれ、

「評価」を霧散させて、単純な「必要」に応じて、

物が流通するだけになるかもしれない。

 

身体の大きさで服のサイズが変わるように、

その人の「ちょうどいい」という感覚に応じて、

あらゆる物事がフィットしていく。

 

自分自身を満たした経験がなかった時には、

「欲望」について、

際限のない化物のようなイメージを持っていたこともあるけれど、

 

実際のところ、

自分のコップのサイズは選択可能で、

 

より幸せに生きたいならば、

それを小さく小さく維持しておくのが懸命なのだということ。

 

巷に溢れている「際限のない欲望」の正体は、

このコップに穴が空いているか、

自分で持てないほど大きなコップで水を飲もうとしているか、

これはコップの問題ではなく、

その人自身の「選択の問題」なのだ。

 

 

先ほど、コンビニで小さなケーキとプリンを買った。

最初は2つとも一緒に食べようと思っていたが、

小さなケーキを食べたら、もう満足したので、

プリンは後から食べることにした。

 

あれもこれもしたいと思っているときは、

大抵、あれもこれもまだしたことがないときだ。

 

どれでもいいからやってみたら、

自分の今のコップの状態が分かる。

 

そして、これからどんなコップにしていきたいのかは、

その時の自分が決めるのだ。