何者でもないことに対して、
何かこう圧力を感じるのはなぜだろうか。
それは、自分の内部から湧き出て来ているのか、
それとも、何らかの視線なのか。
よくわからないけれど、どうにか形だけでも取り繕っていないと、
何か人として生きていて十全ではないような感覚が、たまにやってくる。
不安を刺激すれば、不安が返ってくる。
安心するような言葉を使えば、安心するような視線が返ってくる。
しかし、心は、不安定だ。
心に対してうそはつけないのなら、
安心するような言葉は、どこまでも欺瞞に近づいていく。
不安も含めた全ての感情に対して、
同じような愛着をもって接することができたらどれほどいいだろうか。
そう考えていると、自分を知るとは、生半可なことではないと分かる。
気取っているときは、嘘をついている。
それは、まず誰かに対して。
自分をも騙そうとして、それは挫折に終わる。
心は定まらず、感情は大きく揺さぶられる。
そして、小さなことに反応して、今を台無しにする。
表層のために本質を手放してはならず、
見栄のために虚偽を為してはならず、
とは、頭では分かっていても、どうも何かに反応してしまう。
自由の難しさが、こういうところにあるのなら、
それと逃げること無く向き合っていけたらいい。
課題は常に、自己の内部から導きだすようにありたい。
心は、段階的に成長していくのだろうか。
何も分からないからこそ、何かを分かった気にならずにいたい。
分からないことは、分からないままに抱えておける素直さを持っていたい。
例えば、「答えを出せ」「成果を出せ」「数字を出せ」「結果を出せ」「何かをしろ」
どこから、声が聞こえてくるのだろうか。
誰が、何のために言っているのだろうか。
焦りは、近道を探す。
近道の看板を持っている人に出会う。
彼は口だけの笑みで案内を。
それらしい道が見つかる。
歩みを早めていく。
いたるところに落とし穴があった。
一緒に歩いていたはずの人々は、少しずつ減っていった。
目的地にたどり着いて、地面を掘り起こす。
探していたものが手に入った。
それを探していたという依頼人に手渡す。
誰かの役に立った。そして、報酬を受け取る。
彼の欲しいものは手に入れた。はたして、自分が欲しいものは何だろうか。
立ち止まって考えていたところ、また声が聞こえてきた。
よくわからないが、また彼の欲しいものを探しにいこう。
とりあえず、あの達成感がまた欲しい。
自分の欲望?そんなのよくわからない。そんなことより、結果が欲しい。
焦りが思考を止めてしまった。
心がまだ動いていることには目をつぶり、行動によって感情の靄をかき消していく。
しかし、落ち着いて考えてみれば、単純なことだったのだ。
欲しいものは、あるか、ないか、そのふたつだ。
あるならば、探せばいい。
ないならば、つくればいい。
探した結果も、見つかるか、見つからないか、そのふたつだけだ。
探す価値も同じだ。価値はあるか、ないか、そのふたつだけだ。
あるならば、喜べばいい。
ないならば、見出せばいい。
あるいは、捨てて、また新しく欲すればいい。
欲望が善なのか、悪なのか?
それも単純なことだ。
善であるか、悪であるか、善でも悪でもないか、善悪一体か。そんなところだろう。
善をなしたいならばなせばよい。
悪をなしたくないならばなさなければよい。
欲望を成し遂げたいならばそうすればよい。
思考の道を進んでいけば、自然と、あの圧力的な声は姿を消していく。
なぜだろうか。
きっと、あの声には、理由など無かったのだ。
夏になれば蝉が鳴くように、
人であれば焦ることも往々にしてあるのだろう。
焦る理由を探して、声を見つける。
犯人は、声の主ではなくて、自分自身の無思慮にあった。