海揺録

自律とか、自由とかが、たぶんテーマです。以前は、精節録というブログ名でした。

階段の世界と庭園の世界



酒飲みが「今日で酒を諦める」という言葉を発している姿をついぞ聞いたことはない。

 


階段を登ったその先の踊り場に、

黄金や宝石、絢爛な食卓が広がっているとして、

それらの輝きを欲して階段を登る時、

諦める者とそうでない者が、そこに生じる。

 

踊り場に向けられた視線、その本質は、

条件付きの欲求、さらには、条件的な慣性を、足取りにもたらす。

 

「これを登り切れば、あれが手に入る」という条件付きの欲求は、

「これを登らなければ、あれは手に入らない」という条件的な慣性を生む。

 

無意識は、この慣性をさらに抽象的にとらえる。

「これがないので、あれがない」といった具合に。

 

すると「あれがない」という状態を中心として、

世界を構築しようとする働きが生まれる。

 

「あれがない」という最もらしい理由を、

あちらこちらから収集して、その状態を維持しようとする。

 

こうして、何とも皮肉なことに、

「あれがない」という現実化された状態を願望として、

その願望を即時現実化し続けるループが発生している。

 

つまり、ある意味で、願いは叶っている。叶い続けている。

 

 

さて、ならば、こうした無意識の働きと、

どう調和したらよいのか、ということに自然と考えが向く。

 

まず「何かのために、何かをする」という発想は、これはともすると条件的。

 

無思慮な親が子供に対して、

「お前のために、俺は仕事をしているんだぞ」と言うとき、

「お前がいなければ、俺は仕事をしていない」と暗に言っているに等しい。

 

つまり「何かのために、何かをする」と言う表現は、

「何かのためでなければ、何かをしていない」と言う状態を暗示していることが多い。

 

そして「何かをしていない」ときに、先の表現を願望的に用いると、

先述と同様に「何かをしていない」状態を維持する力、慣性が生じる。

 

 

行動の目的を確認する必要があるとき、そもそも行動は止まっていることが多い。

 

良し悪しは置いておいて、

必死にマラソンを走りながら、

その最中に、自分は何のために走っているのか自問する者は少ない。

 

しかし、マラソンを走る前に、

何のために走るべきかを考える人々はそれなりにいるに違いない。

そして、彼らの大抵は、スタートラインを踏み越えることはないのだ。

 

 

整理すると、

条件的な願望、目的が外部化された行動指針、といった方向性では、

残念なことに無意識と調和的ではなさそうだということが分かる。

 

目の前のひとつ行動を、

一段の階段のようにとらえる思考であっては、

条件的慣性を外すことは難しい。

 

目の前のひとつ行動が、

道端で見かけた眼前の一輪の花を鑑賞するように、

ふと腰を屈めるその所作に近づくほど、

新しい慣性にシフトできる。

 

これは「ただそうする」という状態で、

外部的な目的もなければ、未来的な条件もない。

 

すると、何とも面白いことに、

「ただそうする」という状態を無意識は維持しようとする。

 

これは、生産が無条件下で自動化されることに等しい。

流れのままに、水が川を下るようなものだ。

 


我々は、

何かのためにと意識する時、壁にぶつかり、

何かのためにと苦悶した末、それを諦める。

 


酒をやめる理由を探す酒飲みはおらず、

彼らは常に飲む理由を探している。

気がつけば、その手に盃が乗っている。

 

 

我々にそれぞれ与えられている中心的な欲求は、

まさにそのような傾向を有している。

この中心的な欲求というのは多様かつ基本的で、

 

例えば

「他者と共有したい」「他者に勝ちたい」

「これを作りたい」「これを知りたい」「ちゃんとしていたい」

「一番になりたい」「褒められたい」といった具合であり、

 

これらの欲求は社会の中でバランシングされるように、

個々人に割り振られているように見える。

 

中心的な欲求は、そのものが既に完全なので、

それを欲するにあたり、無条件に願望を想起しやすい。

 

例えば「有名になるために、褒められたい」という言葉には違和感を覚える。

 

その欲求が既完全なとき、

文脈としての目的は常に蛇足になる。

 

階段の世界は、要するに、

ある願望が、欲求としては個人にとって不完全であることを示している。

 

もし、ある願望が、既完全性の元にあるならば、

 

世界は、庭園の如く。

 

願望は、春夏秋冬に従い、

実現は、剪定の如く。

 

その一鋏に命が光る。

 



ノータイム

「こうありたい」という願いは、

「もしこうなら、こうしたい」という前提を伴っている。

 

なぜなら、前提を伴わない願いであれば、すでにそうなっているからだ。


つまり、無条件的な願いというものは即座に現実化されている。


そして、現実化のプロセスは、

驚くほどシンプルであり、この条件性を考慮していない。

 

「お腹が空いたら、ご飯を食べよう」という願いは、

「お腹が空くまでは、ご飯を食べない」という現実をつくっている。

 

願望の抽象化された状態を、波動としてイメージするとき、

この波動は、フラクタルというか、入れ子構造というか、

無条件的な願いは、連続的に無条件的に連なっており、

前提的な願いは、これもまた連続的に前提的に連なっている。


我々の思い込みや固定観念が、

「これがあれば、こうなるのに」と意識に働きかけると同時に、

「これがないから、こうなっている」という現実を作り続ける。

そして、これは単発的ではなく、連続的なのだ。

 

極めて稀に、何らかの運が巡ってきて、

「これがある」という状態が、

確率的に一瞬つくられることがあっても、

前提的な慣性が働いていると、

「これがあれば、こうなるのに」という状態に回帰しようとして、

それを失くすような力が、状態に加わっていく。


言い直すと、願望の波動は基本的に、

無条件的か、それとも前提的か、

いずれかの状態で現実化の慣性をつくっている。

 

前提的な波動の最もありふれた名称は「期待」や「執着」だ。

無条件的な波動には「救い」「感謝」「愛」など、

そういった名称が使われている。

 

大富豪であっても、前提的な願望で生きているとき、

その人の人生は「期待」や「執着」によって連続的に構築されていく。

 

大貧民であっても、無条件的な願望で生きているとき、

その人の人生には「感謝」や「愛」が溢れている。


つまり、波動の性質は、

物理世界のあらゆる指標とは無関係に、

我々の人生を構築する。

 

「すぐさま、そうあれる」願いに従う。

そして「こうあったら、そうあれる」といった願いを手放す。

 

すると「すぐにそうなる」現実がつくられる。

そして「こうでないから、そうならない」現実はつくられない。

 

ゆめゆめ慣性を忘れるなかれ。

 

どうせなら、手放した願いも書き換えて再利用する。

「こうあったら」という部分を、

「きっと、そうあれる」という風に書き換える。

これならば、慣性は無条件的で、願いも維持できる。

 

無条件的な慣性は「きっと」という部分に根拠をつくり出していく。

次第に「おそらく、こういう理由で、そうあれる」という風に変化する。

 

そして、願望と現実は一致する。

無条件的な波動は、時間という概念とは無関係に機能している。

もし、時間が関わる願いがあれば、それは前提的な波動だ。

 

例えば「この時が来たら、あれをする」という思考から、時間を取り除く。

 

それだけでいいのだ。

 

このように、概念的な条件を外していけば、

あらゆる思考は、無条件的な性質に近付いていく。

 

既完全。

 

受容のグラデーション

 

ある行動の後、予想される結果が脳内に映写される。

 

予想と異なる結果が現実にもたらされると、

その差異が、我々に予想の前提についての懐疑を、

計算させるためのトリガーとして機能する。

 

簡単に言い換えると「予想と違ったのはなぜ?」という問いが、脳内に想起される。

 

そもそも、ほとんどの予想は無意識下で行われるので、

この問いに即座に回答することを、意識に任せようとすると、

つまるところ、悩みとして反芻されることが多い。

 

悩みに対して、適当な回答を文言化してみたところで、

脳を完全に納得させて静めるという流れは困難を極める。

 

さて、ここに予想と期待の微妙な違いを考えるきっかけがあるように思う。

 

自らの行動とは無関係に、起こりうるすべての現象を可能性 P と置くと、

P の内、自らの行動と関連して起こりうる現象、つまり関連的な予想の全てを R として、

その予想群の内、自らが起こってほしいと期待する現象群を E として、

E ⊂ R ⊂ P という包含関係を考える。

 

すると、その当人が持ちうる悩みの多さと、

その人が前提としている期待集合の狭さは比例するのでは?という仮説が立つ。

 

これは、予想と現実のギャップの計算の精度云々は、

おそらく本質的な問題ではなく、

想定している可能性の範囲が、

より重要な意味を持っているのではという気づきを与えてくれる。

 

範囲への考察は、

AかBか、白か黒かといった二項対立が最もシンプルだが短絡的とすれば、

AかBかCか、赤か青か黄か、といった複数の連立へと進み、

最終的には、なんでもありうる、というところに帰着していく。

 

なので、完全な予測と、そもそも予測しない、ということは、

本質的には同じ意味を持つようにも思う。

 

そして、期待を手放すということは、EをPの範囲に漸近させていくことだ。

 

どのような結果についても受け入れる準備を整えていくということは、

現実について、無条件の愛を抱いていく姿勢と繋がっているのだろう。

 

 

常に、自らに最も最適な結果が提供されているという仮定に立ち、

結果に対して洞察を深めていくことは、我々の視界を広げる。

 

もしかすると意味などないかもしれない事柄に対しても、

何らかの有益な意味を見出せる知性を鍛えていくことは、

どのような現実をも受け入れる力として機能するのではと思う。

 

 



概念による自縛、道具としての概念

信号の色だけをみて、横断歩道を渡っていれば、信号を無視して突っ込んでくる車があったとき、轢かれてしまう。

 


「私は信号を守ったのに」と嘆いても、命を落としてしまっては仕方がない。

 


もし、轢かれそうになっている子供がいれば、彼を救うために歩道に駆け出す誰かを、赤信号だからといって責める者はいない。

 

 

 

しかし、こうした概念による拘束と、現実の問題との齟齬は、時として、我々の判断を誤らせることがある。

 


「上の命令に従っただけ」という理由で、数多の人々が殺し合いを行なってきた歴史が、それを教えてくれる。

 

 

 

神妙な縁起が織りなす何か、別の言葉では、タイミングとシンクロニシティがもたらす何か、というものと、我々の社会に広く浸透した時間の表示、というものは「実際」が「概念」によって見過ごされがちなひとつと言っていいのではと、最近感じる。

 

 

 

たまたました寝坊が、運命の出会いをもたらすこともあるだろうが、寝坊を強く罰する社会観念の中にいると、どうしてもこうした出会いは起こりにくくなる。

 

 

 

時刻とは、交通事故を避ける信号のように、他者とのタイミングを合わせやすくするための道具であり、おそらく、そうした道具でしかなく、もし、それ以上の意味をもたせてしまえば、冒頭の例に挙げた信号と事故の関係において、信号を守ることを優先して、命を落とすような、臨機応変さを失った結果をもたらす。

 

 

 

こう考えていけば、本来は道具的な意味合いしか持たなかったはずの概念に、過剰な意味と拘束が付与されている例は、それなりに見つかる。

 

 

 

「時間」と「お金」は、おそらくその最たるものに思える。

言語の再道具化

自らの能力とは無関係に、一時期の運に恵まれていた人々は、認知的不協和が生じやすい。

 

認知的不協和は、そのまま心理的に不安定な状態と直結する。

 

その不安定さと、肥大化した実体なき自尊心に対する防衛規制が、彼らの言動に歪な雰囲気を加えている。

 

他人への非難、自己正当化、過去の成功を過大評価するといった姿勢の傾向性は、こうした根っこと繋がっていることが多い。

 

稀に、認知を鈍くしていくことで、心理的に安定状態となる人もいる。結果として、安定状態は先の傾向性を逓減していき、ポジティブな人格形成に寄与する場合もあるらしい。

 

すると問題の本質は、能力の有無でも、運の寡多でもなさそうだ。赤子が認知的不協和など起こし得ないことを鑑みるに、現実への期待や解釈、もっと言えば、彼らの人生に対する観念、さらに深い部分では、言語的な自縄自縛が、本質なのだろう。

 

言語の使用や運用方法を最適化するよりも、いかに言語を用いずにいられるか、つまり言語という概念を、あらためて道具化する方向性に、より重要性を感じる。

 

 

「沙羅双樹の花の色」

 

自然に逓減する才能。若さ。

 

ただ下がりゆく価値と、固着していく価値観。

 

失われる権力と、離れていく人々。

 

札束でできた玉座のみが、虚城に残される。

 

生きる術を知らぬ王は、その玉座を売りに出す。

 

地べたの温度を肌で感じて、自らの虚無を恐れる。

 

交換可能な偽の信頼は、まるで寝返った家臣の如く。

 

夢のような生活の過去が、自尊心を肥大させ、

中の空洞を悟られぬよう、ハリネズミのように。

 

ああ、一片の優しさでもあれば。

ほんのもう少しだけでも、時間の幅を考慮していたならば。

 

彼らの寿命が、数年前に訪れていたならば。

 

権力を貪った代償は、その後の生涯の伴侶となる。

 

しかし、大いなる気づきも、無音の救いも、

常にそばにいて、我々を待っている。

 

真理の鮮度

読書は、自らが現時点で実感している真理感の枠組みのその先の可能性を、常に提示してくれる。つまり、ある概念による自らの緊縛化を避けることにつながる。


局所最適に留まり続けるような思考停止から、大域解へ旅立つための追い風になってくれる。


「これってこういうことでしょ?」という真理感に対して、「別の視点では、こういうこともあって、そして、、、」というように、思考の泥濘や腐敗に陥ることを避けてくれるのが、本の役割といっていい。

ソクラテスなら、無知の知が、目に見える形で置かれたものとでも考えるかもしれない。

こう考えると、積読というのは、その最たる姿な気がして、少し面白い。

 


ショーペンハウアーは、読書と、自分の頭で考えることについて、その鮮度の差から、読書から自立した思考に重きを置いていた。


一方、孔子は「学びて思わざれば、すなわちくらし。思いて学ばざれば、すなわちあやうし。」とそのバランスについての言葉を残している。


一見、異なる主張なので、多少、解釈がコンフリクトするかのように思えるが、視点を上げて、抽象的にとらえていくと、これは統合できる。Aufhebenとはこういうことかもという例にもなって、小気味もよい。


つまり先の訓示の「あやうし」ということは、一度思い込みを強めた人間が、それ以外の可能性について、思い至らなくなりやすいという、ありふれた人間の知性が備えた愚かさを警告しているのだろうと解釈すれば、鮮度の差の話と矛盾することはない。


当然と言えば当然で、ある概念に対する最終的な解釈や実感は当人に委ねられており、その意味で、傍観よりも実践、読書よりも思考は、常に優先的な構造を有している。


鮮度のない真理を、化石的だと表現されていたのを思い出すが、これは、考古学が我々の歴史観や未来展望にヒントを与える役割を担っていることを考えると、なるほど、二重の意味を感じて楽しめる。