存在。
それほど、不確かなものはない。
現実。
夢との違いはどれほどのものだろうか。
私。
私とは何であるか、どうやって説明する術を持つというのか。
いやいや、そうではない。
そんなものがあるにせよ、ないにせよ関係ない。
そうした空想可能性は、一旦思考の外においてしまえ。
欲するならば自らによって創り出すのだ。
欲しないならばその想像を破壊すればよい。
ただただ、現象を受動していくような生き方であるならば、なぜ生まれてくる意義があろうか。意義も与えられるものではない。自らによって、自らの言葉を用いて、獲得すればよいのだ。
その意義への信仰も、自らを疑い抜くことによって、向き合い、そして実際の質的なあらわれによって、それを確信する以外に方法は見つからないことに気がつくのだ。
言葉を追っていれば、言葉によって騙されることは多い。
ならば、常に、現実を創り出し、現実を生きることを覚知し、自分自身によって感情の全てを司らなければならない。不幸も幸福も全て自らの手のうちにあるのだとして、取り戻さなければ、言葉と空想の闇の中に引き込まれていく。
生も死も、選び取るものだ。永遠に生きたいと願う人間は、自らで死を選び取っているということに気がつかなければならない。
大きな動物園。
大いなる大地と、大いなる柵の中で暮らす動物達は、はたしてそこが動物園であることに気がつくであろうか。地平線の向こう側に柵があるとして、そこに向かっていく者に対して、どうして軽蔑しないでいられようか。もしも、この自由だと信じている自由が、まったくつくられたものであったと知ったら、今の幸福感は、すべて嘘に変わるのだから。
しかし、精神が若い者の絶望は、非常に軽度で済むだろう。彼らは、若いのであるから。さて、精神が老いぼれた者に、どうして、今まさに創り出されようとする、より新たな自由について祝福などできようか。自らの愚かな言葉と経験に塗り固められた諦めが嘘に変わるとき、死をもってそれをリセットする以外道は残されていないように感じるに違いない。
自由をつくる者でなければ、誰かがつくりだした自由の中で生きる者にならざるをえない。さもなくば死ぬ。これは、逃げようのない事実であろう。与えられる自由、選び取る自由は全て欺瞞的だ。それは、よりよい隷属という名前がふさわしい。
自らの意識を根本から変革するとき、それは狂気と呼ばれる。
しかし、狂気は常識に変わり、時として道徳と呼ばれる。
自傷行為。
身体的な自傷で安心しているとしたら、それは刹那的な快楽と何も変わりない。
意識を破壊して創り直す。そうして、再び自己を肯定せよ。若者はそうして、創造力の芽をつみとろうとする老いぼれを乗り越えなければならない。
世界は階層ではない。この五感の支配が届く認識の範囲が世界だ。植え付けられた想像ほど危険なものもない。懐疑ではなく、排除せねばならない。実際に体験し、認識するまで、その想像を信じていたとしたら、どれだけの誤解によってこの先を過ごすことになるだろうか。
報酬。
人が行為をする背景には、報酬が存する。嫌々行う何かですら、それによって何かしらの報酬があるから、彼は自由を代償に行為するのである。さて、嫌々行為をさせている命令の主体はどこにいるのか。その命令の主体に何か名前があったとしても、そいつではない。常に彼自身が彼自身に行為をさせているのだ。ならば、彼は自らの支配を放棄している。報酬によって自己を保つことで生を過ごしているに他ならない。飽きたらやめよ。それは普通のことだ。戯れ言に、変な理由を持ち出して付き合うな。
王の嘆き。
「今日は、散歩に行こう。そして、船に乗ろう。さらに、船の上で、劇を見よう。用意しておけ。」
「王よ。劇をする役者はいません。船も、港には一隻もありません。」
「そうか、ならば、まず散歩に行こう。」
「王よ。道は茨だらけ。散歩などできませんよ。」
「そうか、ならば、革手袋と、薙刀を用意せよ。」
「王よ。そんなもの、ここにはありませんよ。」
「そうか、ならば、そこにある剣を持っていこう。これで茨を伐ればよい。」
「王よ。もしその剣によって自らの足を斬ってでもしまったら一大事です。」
「わかった。もうお前には何も話すまい。私は、自らで道を造り、自らで船を拵え、自ら演者となり、今日を楽しむことにする。」
「王よ。孤独な楽しみに意味はありますか。」
「うむ。お前といるよりは何倍もましだ。」