海揺録

自律とか、自由とかが、たぶんテーマです。以前は、精節録というブログ名でした。

刺激と集中のトレードオフ

オナニーは気持ちがいい。まずその仮定をおく。

そして、ポルノは刺激が多い。それを自覚する。

興奮するということは自分が刺激に反応するということだ。

刺激に反応することにきちんと終わりがあるとすれば、それは人間に備わった非常にありがたい機能だと言っていい。無論、エクスタシーや飽き、そして満足などによって終わりは来る。もしも、刺激に対して永遠に満足することがないとしたら、オナニーに終わりはない。それはもしかすると気持ちがいいのかもしれないが、少し想像してみても割と恐怖を感じる。

刺激への反応の連続性は、少し観察してみると、集中状態と似ていることに気がつく。飯も食わず、眠気も忘れ、一つのことに没頭していく。一見すると、双方の区別は付きにくい。すると、オナニーに熱中するだけの「集中力」があるんだったら、それを別のことに向ければ、何かを成就させることも可能なのではないか、などと錯覚してしまうかもしれない。

しかし、刺激の連続的な追求は、集中力によって継続するものではなく、欲望によって継続するものである、という点できちんと区別しておかなければ、愚かな錯覚について見過ごしてしまうかもしれない。欲望による継続性は、満足によって終わりを迎える。集中力による継続性は、集中力が切れることで終わりを迎える。欲望と集中に関係性はあるかもしれないが、欲望は集中力がなくとも継続するのに対して、集中は集中力がなければ継続し得ない。簡単な違いだ。

欲望に身を委ねることを続けていると、満足の水準がどんどん引き上げられていくことになる。すると満足するまでの時間が引き伸ばされる、あるいは、必要とする刺激の量が増大する。より強い刺激に脳が慣れていくと、弱い刺激に対して、すぐに飽きや倦怠感を生じるようになる。すると、日常生活には、妄想やその類に比べて、基本的にそこまで強い刺激が溢れていることはないから(溢れていたら誰も妄想などせず現実に刺激を求めるだろう)、日常生活自体に欲望は満足を見出せなくなっていく。それは、満足の水準が引き上がるごとに強くなる。

常に倦怠感と共にあるような人間が、物事に集中することができるだろうか。物事への飽きやすさが、集中力を高めることはない。それは相反する関係にあると言っていい。

つまり、刺激の連続的な追及は、集中力を減少させていく傾向を持つ。簡単に言い換えるなら、例えばオナニーのやり過ぎは、日常への倦怠感や飽きっぽさにつながり、自らの集中力を減少させてしまうということが分かる。

さて、ならば全ての刺激の強い欲望は、そうした理由から忌避すべきだとする結論は正しいだろうか。私にはそうは思えない。日常が低刺激的なものだけで満たされ、それで自らが満ち足りるということは非常に好ましい生き方なのかもしれないが、世界は広い。刺激は多様で、仮に集中力を失ってでも、体験してみたい欲望だってあるものだ。生き方には多様性があるからこそ意味がある。刺激的なコンテンツを作りたい人々は、刺激的なコンテンツを享受したいとする人々の需要によって自らの創作を支えていく。なぜかAV業界やアダルト関連の仕事に非難的な意見を持つ人々は多いけれど、もし他人の生き方を侮蔑したりするとすれば、それと同時に自らの生き方の多様性を見失うことを承知しているのだろうか。自分の意見を持つことは、自律的な生き方をするための必須条件ではあるものの、他者を侮蔑する意見は、生き方の多様性を無視している。つまり、自らの生き方についての基盤を自らで破壊していることになる。

本題に戻ると、刺激は忌避することはない。リスクとリターンの関係のように、刺激と集中はトレードオフの関係にある。自らの指針に従って、リスクを定めリターンを得るように、自らの指針に従って刺激を得て、集中力を犠牲にすることがあっても何も間違いではない。逆に、集中力を保持するために、刺激を減らしていく努力を行うことだって同時に正しい。

重要なことは、自らの視点によって指針を定め、それに従って、そうしたトレードオフをコントロールすることであり、結果的に何かを失ったり何かを得たりすることは、あくまで指針に備わった確率的な現象であることを了承していればそれで事足りる。

 

 

 

 

 

 

 

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心配するなら金をくれ

いつからか遠い先のこと見なくなっていった。

現状の改善にその日のすべてを費やしているうちに、日々それ自体が達成であり、その達成こそが、今日の全てであるとして認識するようになった。

だから未来には基本的に希望の方が多い。以前、心に住み着いていた鬱屈した不安の虫のような存在はどこかに忘れた。ときに、焦りの種が、嘘くさい不安を持ってくることがあるが、すっと寝てしまえば、そいつらは消えることを知った。

するとなぜだか、時として周囲の人々が、僕以上に僕の未来について心配をしてくるようなことになった。最初のうちは、ありがたいことの一つであるかのように思って、内心のうざったさを覆い隠していたが、徐々に、なぜ人のことに妙な心配をふっかけてくるものかと疑問に思うようになった。

最近では、「本当に心配するならその気持ちを金にしてくれよ」と心の中で考えるまでになって、それがいいのか悪いのかわからないが、「心配」という言葉に隠された他者の欺瞞に多少敏感になっているような気がする。

心の声。

「心配している?嘘をつけ。その薄汚れて錆びついた好奇心が、何かに取り組んでいる者の足を引っ張っているということを反省してみたらどうだ。」「その口から発される『心配』という言葉の中にあるいくつもの矛盾こそが、自己欺瞞を為していることの何よりもの証拠ではないか。しかし、そうやって君が自分に嘘をついているということを誰も責めはしない。その卑屈さを周囲に撒き散らすのだけは勘弁してくれ。」

こんな風に少し苛立ってみてから、落ち着いて考え直すとあることを思う。

「欺瞞的な心配」というものは誰かの邪魔をするか、何もしないかであって、この世において、何の意義もないことに気がつく。ならば、相手にする必要はない。それに何らかの形で応じることはない。愛情によってそれらを受け止めたり、感謝する心の余裕がないときは、無視をしたって全然構わないし、それが健全な精神を維持することになる。今まで通りに希望を持って、日々の達成を喜びとして生きていくだけだ。

 

 

 

 

 

 

 

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自分を自分で育てる

誰かから向けられた言葉に、もしも苛立ちを覚えることがあったならば、その時は自分で自分自身を評価することを怠ってはいないかどうか、日々を振り返ってみたい。

誰かからの評価について、全く自己への関与を許さないほどの自己評価を確立していこうという姿勢が、生活のどこかにないとすれば、まるで雲の上を歩いて行こうというのと同じであろう。仮に雲の上を進んでいけたとしても、地に足がついていなければ、常に下に落ちて行く恐怖がそこにはある。

そんな恐怖は、少なくとも僕には必要ない。必要ないものならば、それを自分から取り除くような対策を用意すれば良い。

簡単なところから始めていきたい。例えば、今日の睡眠は自分にとって十分摂れているか。今日の食事は自分にとって適切な量であるか。洗い物はきちんとやったか。掃除や洗濯をほったらかしにしてはいないか。今日の学びを得るために何か行ったか。学びを今日に活かせているか。何か運動はしたか。

それぞれに「○」でも「△」でも「×」でもいいから自分で自分を評価しておきたい。すると不思議なことに、他人と比較するような気持ちはどんどん薄れてくるものだ。人生が、社会との相対評価という正体の掴めないものから、自分自身との相対評価というはっきりとしたものによって、日々定義されていく。

誰かから馬鹿にされようとも、誰にも理解されなくとも、人を見下したり、人に嫉妬したり、そんなことに少しずつ感情を動かされないようになっていく。この恩恵はでかい。

自分で自分を、自律的な基準によって評価していく。そして、日々における改善や反省を明確に認識する。その中で、自らの基準を、自らにとっての重要性によって可変的に築き上げていく。その作業は「自分を自分で育てる」試みとでも言い換えることができよう。そうした育成に基づいて生きるならば、成長すればするほどに、どんどん自由が広がっていく。なぜなら、自らの基準を満たすということは「あるがままにあれる」とか「ありたいようにあれる」ということと同義であるから。

 

 

 

 

 

 

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植物への憧憬。

生物全体において、植物の賢さは比類がないもののように思う。

自らの栄養を全て循環の中で吸収し、そして全体へ貢献する。

人間がどれほど人工知能や機械化、自動化によって、その機能を拡張していったとしても、自然の大きさからすれば、なんとも小さな働きだろう。自然はもともと「自動」だ。

都市に住む人間が増え、畑を耕す人間は減った。生産の仕事から離れ、椅子に座り、誰かに指示を出し、誰かの働きを利用しながら、自らに富を集中させようとして、四苦八苦しているならば、植物をみならいたい。

そこに権力はない。自然な流れの中で、他の存在の力を利用する。利用される側に嫌々従う存在はいない。力の弱い植物たちは、何かを従えることができない。きっと力が強くなろうとも、そんなことはしないだろう。そんな無駄なことに労力を費やすことなく、目的を果たせることを知っているのだから。

彼らは遊ぶし、踊るし、寝る。合理性を持っているし、常に全体への貢献を果たしている。他の存在とつながり、からみあい、とけあう。成長の途中で、土壌の栄養を他の存在と奪い合うこともあるのかもしれない。その戦いは、とてもシンプルだ。生きようとするもの同士が、自らが生きるために戦う。もしかすると、なんらかの複雑さの上にそのシンプルさが見えるだけかもしれないが、僕は、植物たちの「ただ生きるために戦う」というその姿勢に憧憬する。なぜなら、目的観がフェアだからだ。

自分が死ぬ可能性を前提として、他者の命と戦い、自分が生きる可能性を見出そうとしている。安全地帯で自らの命を危険に晒すことなく他者の命を奪うようなことはしない。

人間は、リスクの多くを避けると同時に、本質的平等への公正さを失って行くように見える。リスクは避けるものではなくて、それを了承することで、別の道を見出せるように思う。「ただ生きる」ということが、とても難しく感じるのは、きっとリスクを避けてきた代償に他ならないのかもしれない。

 

 

 

 

 

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「可能」と「簡単」が増える。

やりたいことを突き進んでいると、やりたいけれども技術的にできないことに突き当たることがある。しかし、毎日の積み重ねの中で、勝手に必要な技術が習得できていたりすることがあって、そうすると、しばらく放置しておいた事柄が、後々するすると解決していくようになる。

そんな体験が何度も何度も繰り返されると、最初はできないように思えることにぶちあたっても、「まあ、しばらくすれば、自然と解決するだろう」という心理状態になっていった。その心理状態に応えるように、大抵の困難なことは、寝ている間とか、何をするでもなくぼーっとしているときとか、そんなときに脳がひとりでに勝手にひらめいてくれて解決してくれることが多い。

考えてみれば、僕はほとんど何もしていない。身体になんらかの問題を取り込んだだけで、その解答の出力が出力されるままに外部に出しているだけのようだ。僕の身体を、僕ではない何か妖精のような得体の知れないものが通り抜けていくようなイメージ。そうした勝手に身体を使ってくるような存在を拒否したりせず、むしろ待ち遠しいとすら思っているのは、とても不思議な感じがする。

新しいことに挑戦するのが、昔よりも怖くなくなったのは、この妖精の存在を徐々に知るようになったからで、自分ひとりで全てを抱え込んで挑戦するわけではないことが分かったからでもあるのかもしれない。

「そんな存在はいない」と人は言うかもしれないけれど、僕は「そんな存在を信じた方が、人生はもっと楽しくなるし、可能性は広がるし、孤独の恐怖から解放されるし、信じない方がもったいない」とすら思う。信仰の意義は、科学性の問題ではなく、合理性の問題によって示される。

もっと自在に想像力や創造力をつかって、生きていきたい。確かなことだけが、人生を豊かにするわけではない。時には、不確かなことの方が、不確かであるが故に、非常に強い心の支えになったりするのだから。

 

 

 

 

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批判のマナー。非難の不要さ。心の強さ。

自分自身にとって何かを「正しいとする感覚」は、自己の内部においては重要なインパクトを持っている。

しかし、その感覚が他者の内部においても、絶対に正しいなどと考えることは不毛な事態しか生まない。

他者が間違っているかもしれないという可能性と同様に、自らが間違っているかもしれないという可能性を常に把握しておかなければ、遂にはその前提を無視した批判が行われてしまいがちである。

批判とは対話の一種であり、対話とは、言葉と論理のみを用いて、それ以外の力によることなく、裸の言語によって、正誤の判断を模索し合う行為であろう。喧嘩のような殴り合いではなく、建築のような発展的な営みのはずだ。

それを行うには、知性よりも先に感情的な冷静さが必要になる。批判のふりをした非難は、相互的な視点や冷静さの欠如によってある程度判定できる。というよりも、何かを主張するにあたって、どちらか一方でも、論理よりも感情のウエイトが高まった時点で対話は不成立になる。であるならば、相手の感情を故意に刺激するような言動は、それだけで対話におけるマナー違反と言える。

対話は、そこに参加する人々の人間的な優位性を確認するようなお遊びではない。正義感覚を盾にして、誰かを無遠慮に責めるような行為は、当然対話でもないし、批判でもない。

主張された文字列が、いかにももっともらしい体裁を保っていようとも、主張者の態度が対話にそぐわないものであれば、正しさは意味を持たない。そうした態度を続ける限り、主張される正義感覚は、捨てられる生ゴミと変わりはない。

真理らしきものがあると想定したにせよ、誰かを不要に傷つけてまで主張する必要があるような真理などどうして存在するだろうか。自らの小さな満足のために誰かの心を大きく傷つけるような行為を正当化する根拠はどこにもない。自分が他人よりも優位性があると信じている者は、その信仰が自分の中だけでなく世界的に拡大したときにおこる悲惨さに目をつぶっているだけであろう。全ての存在が比較の中だけで自らの位置を決め込むような世界であるならば、人間は自らが有する「感情的な慣性」と「近所との小競り合い」によって、未来永劫、不満足のままで生きることになる。

こうした簡単な矛盾に気がつくならば、言葉の暴力をふるっている惨めさを思い知ることになる。その行為は、何を善くするわけでもなく、世界を不幸にしているだけであるから。

批判をするには技術がいる。誰にでもできることではないし、誰とでもできることではない。状況を間違えるならば、自分では優しさのつもりで発した言葉だとしても、相手の心臓を抉るような刃物に変わることもある。

その凶器は「偽善」と呼ばれている。

それを手に握っている者は、取っ手の棘によって、自らの手から血を流しながらも、自分自身の痛みに気がつかない。大抵、真面目な顔をしながら所構わず得物を振り回している。

しかし、多くの場合、悪意はないように思う。

ならば、必要以上に抵抗することもなかろう。

刺されても血が出るだけだ。

死にたくなるようなことがあっても、死ぬわけではない。

刺されても笑顔でいれるほど強い心を持ちたい。

笑っていれば、痛みは和らぐから。

 

 

 

 

 

 

 

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